泥遊び 筆遊び|加藤静允


5|粉引について


 

粉引徳利 加藤静允 作

 粉引という焼物は日本の焼物好きにとっては一つの異界です。小さくてそう簡単には入れてもらえない秘された庭園と言う感じでしょうか。白洲正子さんがお亡くなりになるほんの数ヶ月前、いつものように「今、いいかしら……」とお電話があって、「どうしても欲しいものができたの……」と。それが粉引の徳利でした。ずい分のものを下取りに出して、ついに入手されたようでした。
 粉引の茶碗はお茶の方でもやかましいものですが、ウーン、コレハスゴイナア、エエナアと言うものはあまりありません。汚いのはイヤと強く感じる私にはずい分危い焼物です。ほんとうに古い伝来のはっきりした粉引というものはほんの少ししかありません。多くは大正、昭和の初め頃に朝鮮半島南部から出土渡来し、美しくそれらしく茶人好みに育てられたものが多いように思われます。
 昭和20年の敗戦前、日本が朝鮮半島を領有支配していた頃、多くの日本の焼物好きがその窯跡を探していたのですが発見出来ませんでした。半泥子が山田萬吉郎の務安の窯場でひと窯焼かしてもらっていた時代、日本人が自由に窯跡探索できた時代でも、よう見つけんかったようです。宝城の周辺から粉引がよく出るので、その辺りであろうとは昔から言われていたようですが。

 

 はっきりした粉引の窯・雲岱里雲谷古窯跡が画家・趙三勲氏により発見され、その親友で文人の孫之煥氏、更にその陶友並河靖之先生に伝えられたのが1973年のことでした。その古窯跡拝見のため私と美術好の友人石黒達也氏と喜び勇んで全羅南道へ出掛けたのです。その旅行記と学術的報告は「陶説」の284号(昭和51年 1976)と288号(昭和52年1977)に記載されています。
 粉引の白に魅せられて、しばらくの間狂ったように泥遊びをしていたのです。胎土の土のこと、化粧土のこと、並河先生が韓国から取り寄せられた洛東江下流辺の金海白土を分けていただき、いろんなことをやってみました。
 粉引の他の焼物との相違点は白化粧を総掛けにする点です。同じ白化粧土を使うにしても刷毛目や無地刷毛目と言われるものとの第一の大きな違いです。我々素人がやると「ヨシ、キレイニ化粧デケタ……」と見て、30 分ほどして見に行ったら……、ゼーンブ、ペシャント、ツブレテタとなること、よく経験しました。ソレナラともう少し乾燥させたところで化粧掛けすると、肌がきたなくなってしまいます。
 沢山ある粉引の陶片、白一色やのに同じものは一つも無いのです。こんだけイロイロあるんや、どない作ったかて、きっとどれかに似るやろと思うのですが……。出来たものを見ると全くどれにも似ていません。
 今の日本でも多くの人が粉引を焼いていますが、拝見して「ソヤ、コレヤ」と言うもんはまだ出会ったことがありません。
 「ソラソーヤ。時代ヤ」とは解っているのですが、粉引に関してだけはシャクですね。「今ニ見トレ!」と思いつつ来たのですがもうだめです。大いに楽しませてもろたことは幸やったと感謝しています。

 

加藤静允(かとうきよのぶ)

京都生まれの小児科医。鮎を釣り、書画を好み、陶芸をたのしむ。すべて「ソレデイイノダ」が最近の口ぐせ。細石は少年のころ井伏鱒二にあたえられた釣人の号。


 < 4|宋赤絵小服茶碗 を読む