relay essay|連閏記


11|思いの手放し

合原一幸(複雑系数理工学)


 

小説や大河ドラマの主人公にもなった坂本龍馬が修業したのが、北辰一刀流です。北辰一刀流では、その独特の構えとして、切っ先を上下に動かす「鶺鴒(せきれい)の尾」が有名。この「鶺鴒の尾」のようなゆらぎは、感覚の受容と深く結びついています。感覚系にカオスのような不安定性があると、様々な入力にもただちに応答できる可能性があるように思われます。がっちりと固定された不動状態では、入力に対し静止状態から動作に入るために応答が遅くなります。実験的にも、脳の視覚野などで、外界の情報入力を受容する部位の活動が自発的にゆらぐというデータがあります。

おそらく剣術の場合、本当に効率のよい切っ先のゆらぎは、無意識のうちになされているはずです。そこを私のような未熟な剣士は意識的にやろうとしますが、無意識のうちに効率のいいカオスがつくり出せる人が強いのでしょう。それは無意識に、多様な攻撃にも対応できる基底状態がつくれるということです。受容性や応答性が豊富だということでもあります。意識していると、意識に嵌ったときにはいい応答ができる一方で、裏をかかれやすくなります。
達人同士の対決では、相対しながら動的に相互作用をしているのでしょう。相互作用で互いの力量を推し量り合って、一手も合わせずに「まいりました」などということも起こり得るわけです。

カオスは、状態空間の中でストレンジアトラクタというアトラクタを描きます。アトラクタとは、事象の振る舞いをあらわす数学的な概念です。そのアトラクタの次元やトポロジカルな形状が、カオスの特性と関係します。達人たちは、無意識のうちにこのカオスを活用している可能性があります。注意を向けていない外部からの入力も、おそらく無意識によって処理されています。達人は、そういうものも含めて適切な応答をいつでも取り出せるのかもしれません。意識は一つなので、意識的には一時に一つのことしか実行できません。それ以外は並列的に無意識でやっていると思われます。その能力が高いかどうかが重要なのです。

数学的な発見などでも、よく似たことがあります。ジャック・アダマールの『数学における発明の心理』に、前の晩まで考え詰めてわからなかったことが、翌朝物音で目覚めたとたんに答えが浮かんだ、という話が紹介されています。しかも答えは、それまで考えていたものとは違う方向にありました。集中して意識的に考えている仮説以外の思考も無意識下で同時に動いていて、それが何かのきっかけで意識に浮上し、ほぼ完全なかたちで答えが出たわけです。意識というのはほんの氷山の一角で、多くの重要な情報処理を広大な無意識の領域でやっているように思われるのです。もちろんどんな問題においても、かなりの時間は集中して徹底的に考え抜くことが必要条件です。それが前提となって、無意識下でも思考過程が動き続けるのでしょう。そうして、しばしば無意識の発見が起こるようなのです。

個人的に禅に興味があります。大学院を突然中退して仏門に入った友人から、座禅には「思いの手放し」という言葉があることを教えられました。普通、ものを思い浮かべると、連想の連鎖が起こります。座禅をしているときも、生きている以上当然思いは浮かびます。どうやら、その浮かんできたものを手放してやるという状態を保つのが、座禅の一つの狙いのようなのです。難しいのは、思いを手放していると意識した瞬間に、手放せていないことになるところ。言葉でいうほどやさしくはありません。禅僧たちは何十年もかけて、そういう状態を目指して座っているそうです。時間スケールの違いに大きな感銘を受けます。

「思いの手放し」状態の保持は、カオスと似ています。思いを次々に手放す状態を一本の軌道であらわすなら、思いを追って連想している状態はこの軌道から、たとえば上方にどんどん離れていきます。他方で逆方向へ離れると、眠りに落ちてしまいます。

われわれにとっては連想状態が普通であり、むしろその能力を研ぎすませて日常生活を送っています。「思いの手放し」とは、そうではなく、生きている原点に帰ること。もちろん完全な手放し状態がずっと維持されるわけではなく、ゆらいでいるはずです。その状態こそが、まさにカオスであるように思われます。日本の武術や芸能が禅と結びつくのも、おそらくそんなところに理由があるのかもしれません。