relay essay|連閏記


28|湖上を歩く

小笹純弥(写真家)


 

 まだ薄い氷に足を乗せる。甲高い音をたて、透明な氷に亀裂が入る。今できた亀裂で厚みを確認する。1センチ半では、いつ割れてもおかしくない。ここは3センチあるから、すぐに落ちることはないだろう。音、振動、足の裏で感じる氷のたわみ。観察と感覚を頼りに、一歩一歩踏み出していく。


 身体から離れた影。まるで空中を歩いているような、いつもは決して見ることのできない視点。湖底の様子を眺めながら歩く。透明な氷の下をワカサギの群れが逃げてゆく。一匹の大きな魚体が群れに突っ込んだかと思うと、口にワカサギを咥えて深みへと逃げていったり、半死半生の鯉が氷の下を泳いでいたり、浮かんだまま凍りついたシカの亡骸を見つけたこともある。厚みが増すまでは深いところには行かない。そうすれば、落ちてもひどく寒い思いをするだけで済む。

 遠目には何もないように見える湖面だけれど、歩いてみると実にいろんなかたちを見ることができる。眼に見えるもの全てがそこで何が起こったかを教えてくれる。山を歩く猟師のように、痕跡からそこで何が起こったのかを想像する。


 凍結した湖が唄うのをご存知だろうか。それを僕は『湖の唄』と呼んでいる。はじめて聴いた時の衝撃は忘れられない。広大な湖を甲高い高音が疾ってゆく。遠くから伝わる重低音が折り重なる。大きな音は連鎖反応を起こし、縦横無尽に、あちらこちらで走り出す。湖全体がスピーカーの膜のように振動し、広大な風景を震わせている。この世のものとは思えないような音体験だった。
 寒暖差や日光による氷の収縮と膨張によって亀裂が入り、音を立てる現象だと理解してはいる。それでも、自分にとってそれはまぎれもなく「唄」だった。
 湖の唄との出会いは、人生を変えてしまうような一種の宗教的な体験となり、それ以来、撮影中心だった僕の湖上散歩は、湖の唄を録音するフィールドレコーディングが主体となっていった。

 ある朝の湖で、呑気に録音機をセットするのに適した場所を探していたら、ハッとさせられた。ヒグマの足跡だ。それも、ものすごくあたらしい。足跡についた砂粒に霜が発達していない。直前か、長くとも1時間ほどしか経っていないだろう。多くの個体は冬眠に入っている時期ではあるが、まだ雪も少なく冬眠していない個体もいるかもしれない、とは思っていた。漠然とした警戒対象は、この足跡の向かう視線の先のどこかからこちらをうかがっているであろう、まなざしの主にかわった。
 慌てて逃げ出したくなる衝動を抑え「ォオーーーイ」と声をあげた。努めて穏やかに、けれど大きな声で、自分の存在をはっきり知らせるために。
 ヒグマが人を見たらすぐに襲いかかってくるような獣であれば、とっくに襲われているだろう。向こうもそれは望んでいないはずだ。それでも相手は野生の獣。声色や冷や汗の臭いから、ちょっと怯えてる自分の内心は、相手には伝わってしまっているのかもしれない。呼吸を落ち着け、あらためて録音機をセットしてから、もうひと歩き。ヒグマと同じ場所を散歩したことも、今ではいい思い出だ。