relay essay|連閏記
32|コルビジェと屋根裏部屋
添田 浩(建築家)
「巴里の屋根の下」。 ルネ・クレールの1930年映画初回作のタイトル。そしてその同名の挿入歌。誰でもが知り、愛され、多くの歌手たちにカバーされて、もう100年を迎えようとしている。
パリ。世界の大都市に数えられつつも、6〜7階の低層建物がぎっしりと建ち並び、運よく高い視点を与えられたなら、そこにあるのは屋根、屋根、屋根……。私はだから、謳われている「屋根の下」とは文字通りこの屋根の下、屋根裏部屋のことなのだろうかと一瞬思った。そんな筈はないさ、シャンソンだぜ! 直接的な表現ではなく、人情の通じた一つの小世界をそんな風に呼んだんだろう。謳われる内容だって下町での苦労話、恋の、そして世代を超えて繰り返される人生の話。屋根裏部屋に納まる話ではない。
1972年、私は仕事があって2か月程パリにいた。与えられた住まいは高級住宅街で有名な16区、ミュエット広場から徒歩で5〜6分、ブールバール・エミールオージェにあるアパルトマン。アントレ-クーロワール-サロン-サラマンジェという伝統的な平面構成をもつ住宅の一室だった。クーロワールとは廊下のことだが、カルチェ・ラタンのある骨董屋の店名がオー・フォン・ド・クーロワール。廊下の奥まったところに、とあるように、高級家具を一つ置くのに此処ほどふさわしい所はないと言えるような、アントレに続く住まいの顔とも呼べる空間である。クーロワールを挟んで、サロンとサラマンジェが対していて、このコンポジションを人は頭を振りながら、アントレ-クーロワール、右に傾けてサロン、左に傾けてサラマンジェと、そうすることが常識とでもいうように大袈裟に表現する。
建物の地階、日本の1階、はコンシェルジュの住むところ。1階、日本の2階から6階、同7階まで6住戸が同じプランで重なっていて、そしてその上が屋根。文字通り屋根の下には屋根窓のついた18の小部屋が中廊下で連なっている。1住戸当たり3室、そこは女中部屋だ。女中はコンシェルジュを通しての間接雇用。女たちは大きなトランクを持って地階のコンシェルジュの戸を叩く。雇用のあてがあれば、コンシェルジュは屋根裏部屋の一つに女を案内する。戸主との面接の結果、雇用が決まれば、専属の女中としてそこに留まる事となる。私はある日、私がいた住戸の家族たちが留守の時に、女中たちの専用階段でもある裏階段を女中の後に続いて駆け上り、その部屋をのぞき見することに成功した。ベッド、ロッカー、小型の冷蔵庫、そして壁に大小額入りの家族の写真。ドアを背にして真ん前に大きめの傾斜窓がひとつ。頭一つ窓台の上に出た私の視線にあった風景は、私と同じ高さにある同じような大きさの屋根窓、屋根窓、屋根窓。夏の夜の暮れ残る肌色の空と暗灰色の雲、そして同色のアルドワーズの屋根、屋根、屋根。そこにあるのはシャンソンに謳われたような色とりどりの人生の舞台なのではなく、一色に塗り込められた残酷な階級社会の姿だった。
建築家ル・コルビジェの名を知らない人はいないだろう。「近代建築5原則」として彼自身による5つの指摘がある。ピロティー、屋上庭園、自由な平面、自由なファサード、そして横長の連続窓。彼はまた「新しい酒は新しい革袋に入れよ」との聖書の一節を愛したという。レスプリ・ヌーボー、新しい時代精神、それが新しい入れ物、新しい建築を求めている。コルビジェはそれに応えようとした。鉄筋コンクリートという新しい建築技術がそれを後押しした。自動車のような、飛行機のような、これまで見たことのない姿をもつ新しい建築へむけて、人類は答えを見出すに違いなかった。本当にそうだったのだろうか? スイスから出てきて、建築の学歴も持たずに、サロンに受け入れられて頭角を現した気鋭の建築家にとって、期待された唯一の才能とは社会に対する異論だったのではなく、望まれた結果を探し描くエスキース、そして、奇跡としか言いようのない完成された建築の美しさ、それだけだったのでは? さらに問うなら、レスプリ・ヌーボー、そんなものが本当にあったのだろうか? そしてコルビジェは、それと出会ったことがあったのだろうか? どこで……?
私は女中部屋を後にし、薄暗い裏階段を駆け下りながら、各階の踊り場ごとに露出して置かれている女中専用の便器に躓きそうになりながら、ピロティー、屋上庭園、ピロティー、屋上庭園と、呪文のようにくり返し呟いていた。頭の中で屋根をぶっ壊すと、そこには明るい日差しを浴びた屋上庭園があった、地階をぶっ壊すと、街路の延長としての無言の構造物、ピロティーがあった……。
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