relay essay|連閏記
33|画竜点睛を欠いた名画『モナ・リザ』
西岡文彦(多摩美術大学名誉教授)
絵画の仕上げを意味する「画竜点睛」の「睛」は瞳を指している。
中国南朝時代の宮廷画家が、寺の壁に描いた竜に瞳を描き込んだところ、たちまち生命を得て雲に乗り昇天したという故事にちなんだ言葉だが、じつはこの画竜点睛を欠いているのが、名画の中の名画『モナ・リザ』である。
ルネサンスを代表する巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作で、写実描写において美術史上最高の境地を示すこの作品には、ハイライトと呼ばれる瞳の光点が描き込まれておらず、文字通り画竜点睛を欠いてしまっているのである。
ちなみに、ルネサンス名画と中国の故事の取り合わせは唐突と思われるかも知れないが、当時のイタリア絵画はシルクロード貿易で東洋絵画の影響を強く受けており、ルネサンスの先駆として知られるマルティーニの名画『受胎告知』なども、聖母の顔は東洋人としか思えぬ切れ長の眼で描かれている。『モナ・リザ』の背景にしても、その幽玄の風景には東洋の水墨画の影響を見ることができる。
1503年、フィレンツェでこの絵に着手した時のダ・ヴィンチは51歳。その後、フランス王室に招かれ67歳で亡くなるまで加筆され続け、妻リザの肖像を注文した貿易商フランチェスコ・デル・ジョコンドの手にも渡っていない。おかげで、この絵はフランス王室に買い上げられ、ルーヴルの至宝となったのだが、ダ・ヴィンチの完全主義に加えて、この作品の未完の原因となったと思われるのが、最新の技法であった油彩の使用である。いくらでも加筆修整ができるという当時としては画期的な油彩の新機能が、かえって作品の完成を妨げる要因となったと思われるからである。
絵の具を油で溶く油彩は、乾燥すると表面にガラス状の膜ができるため、何度でも色を塗り重ねることができ、真っ黒に塗った面も乾かせば真っ白にな絵の具を塗ることが可能である。従来の水性の絵の具を主流とする絵画では、ここまで自由な塗り重ねは不可能であり、ルネサンス期に絵画の写実描写が一挙に発展したのはこの新機能のおかげである。
油彩が誕生したのは、今日のベルギー、オランダにあたるフランドル地方でのことで、これをイタリアでも最も早い時期に活用した画家のひとりがダ・ヴィンチであった。異常なまでに凝り性だったダ・ヴィンチは、油彩の塗り重ね機能をこれ幸いと、徹底した写実描写を追求、おかげで『モナ・リザ』も延々と加筆修整を繰り返されることになる。
晩年のダ・ヴィンチは通風を患い、手も思うように動かなくなっており、人物画の画竜点睛ともいうべき瞳のハイライトを欠いたのはそのためであろう。もしも油彩がこれほど加筆修整が効かず、もう少し早く仕上げることを要請する技法であったなら、あるいはダ・ヴィンチも手が自由に動くうちに、画竜点睛を果たしていたかも知れない。
二十世紀末にコンピュータ・グラフィックスが登場した折りも、いくらでも画像の修整が可能なことでクリエイターを狂喜させているのだが、ルネサンス期における油彩の発明にも似た側面があり、『モナ・リザ』の未完は、いくらでも加筆修整が可能であるという油彩の利点が裏目に出た結果かも知れないのである。
そういう意味では、油彩の利点は欠点とも背中合わせだったことになるのだが、絵画というもののむずかしさは、その画竜点睛を欠いていることが、必ずしも『モナ・リザ』の欠点とは言い切れない点にある。この絵に先立ち画竜点睛を果したダ・ヴィンチの人物画にはいずれも、『モナ・リザ』特有の幽玄の魅力というものが、欠けているからである。瞳の輝きが鮮烈である分、画面に生々しさが加わり、『モナ・リザ』の靄がかかったような神秘的な雰囲気がかもし出されていないのである。
利点が欠点と背中合わせであったように、欠点もまた利点となり得るわけで、そういう意味では晩年のダ・ヴィンチの通風も、『モナ・リザ』の幽玄の風情に一役買っていたということになるのかも知れない。
誠に唐突な例で恐縮ながら、昭和の名落語家古今亭志ん生の晩年の言葉に障害が出始めた当時の噺なども、不自由な言葉に凡百の映像をも凌駕するパースペクティヴを現出して、まさに圧巻の一語であった。
かすれた声でたどたどしく語られる季節の情景などは、それこそ『モナ・リザ』背景の水墨画を思わせる景観さながらに、仙境から届く言霊のような深い味わいがあり、聴く者を魅了したものである。
そういう意味では、不自由もまた自由と背中合わせであるのかも知れない。
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