relay essay|連閏記
34|紙の本とからだ
幅允孝(ブックディレクター)
私はブックディレクターとして、さまざまな場所でライブラリーをつくる仕事をしています。その場所は公共図書館や学校図書館、企業の図書室、ホテルや病院の図書空間など多岐に渡ります。よく勘違いをされるのですが、建築や内装をする仕事ではありません。建築家やインテリアデザイナーが設計した建築や空間に、どんなコンセプト・分類法で、どんな種類の本を収蔵し、どう配架をするのか? を考え実装するのが主な仕事です。
一方で、最近は図書館内の家具計画やサイン計画、館のロゴを作ったりするアートディレクションなども担うようになってきました。これまた勘違いされやすいのですが、洒落て小綺麗な図書館を日本全国に増やしたい訳ではありません。私たちが、本の差し出し方にこだわるようになったのは、書物が人へ届かなくなってきている厳しい現実を日々実感しているためです。
以前は目の前に面白そうな本が1冊置かれているだけで、誰もが興味を持ってそれを手に取り読み進めてくれました。けれど、没入にある程度のときを要する紙の本は、即効性や能率、事実に基づいているかよりもレスポンスの速度を追い求める現代において、かなり肩身の狭い思いをしています。
ゆえ、私たちの手掛ける図書館の家具計画では、書棚に並ぶ本の内容によってカーペットの種類を変えていきます。じっくり腰を据えて読む哲学や心理学に関する書物の足元は、他より毛足を7ミリほど長くしてふかふかに。椅子の座の高さも380ミリ以下のラウンジチェアタイプにし、座面も柔らかい素材を選びます。背板の角度もゆったりしたものにすれば、眼前にある難解な哲学者のテキストにもゆっくりと深く潜っていけるかもしれません。逆に、多くの人の対流を促したい新刊書架の足元は硬めの素材を選んだりもします。
「本を読みましょう」という内容のポスターを壁にぺたぺた貼るより、「気がつけば読んでいた」という環境をどうつくるか? 私は、アフォーダンスという概念を提唱したJ.J.ギブソンの『生態学的視覚論─ヒトの知覚世界を探る─』という書物に影響を受けました。それをベースに本を読む「行為の機会」をどう知覚してもらい促すのか(この場合はD.ノーマンが『誰のためのデザイン?』で定義した「signifier」の方が正確かもしれません)という試みを図書館で実践しているというわけです。とはいえ、仮定に基づいて公共図書館の椅子を購入できるわけではありません。何種類もの椅子を準備してストップウォッチ片手に個々の椅子への滞留時間を計りながら検証を重ねます。皆さんの思う以上に地味で地道な仕事だと覚えておいてください。
さて、ここまで本を届ける難しさについて書いてきましたが、一方で紙の本には大きな可能性があるとも考えています。責任の所在がはっきりした情報を見開いて読める迫力や理解の容易さ。前後の文脈(ページ)を行き来することで描ける脳内地図の鮮明さ。美しい装丁の書物に触れ五感を総動員して愛でるよろこび。しかもそれは再生メディアの変容など関係なく、どんな時代でも読むことができます。そして何より紙の本は自身で読まないと前に進まないという自発的なツールである点が素晴らしいと思います。
近年はシステムとテクノロジーの発達によって、何かを掴みにいかなくても動画配信やSNSなどの娯楽コンテンツが、その人の余白の時間に注ぎ込まれるようになりました。けれど、それに浸り受動する態だけで毎日を過ごしていると、自身の内側をのぞき込む習慣もなくなります。一方で、自発的な「読む」という行為は、自分で理解しながら読み進めるだけでなく、止まって考え、相対化し、別の資料をあたり、自らの内面の根の部分と本(という他者)を結びつけることに繋がります。
その場をやり過ごす短期的な回答ではなく、自身の経験や身体と結びついた知識こそが、日々を健やかにするために作用するのではないかと私は考えています。生成AIが想像以上の速度で進化し、シンギュラリティの時代を迎えようとしている人間が今後担うべき営為とは、自身の内側のどこかに隠れている、偏っていびつな熱い何かを大切にしていくことなのではないでしょうか?
愉しく健やかに生きて死ぬために、紙の本はまだまだ有用だと私は思います。
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