relay essay|連閏記
39|演劇と芸術
齊藤栄一(美学・美術史)
日本でもヨーロッパでも演劇の歴史はともに長いけれど、日本ではヨーロッパと違って、芝居を観るときに二つのまったく異なる経験をすることができる。ヨーロッパ近代演劇の古典といえば、イギリスならシェークスピア、フランスならラシーヌなどがすぐ思い浮かぶ。しかし、たとえばロンドンである年に「ハムレット」の興行が5つあったとして、その上演の様態は5つが5つすべて違う。いうまでもなく、それぞれの公演に携わる演出家がすべて異なるからだ。日本でも事情は同じで、たとえば三島由紀夫の「サド侯爵夫人」の舞台はその興行数だけバラエティーに富むだろう。洋の東西を問わず、演出家たちは我が身の職業的安定の浮沈をかけて、世に自らの「オリジナリティ」を認めさせようと躍起になる。
いっぽう、日本にあってヨーロッパにない演劇の形態がある。歌舞伎などに代表される伝統芸能のことである。こちらは発生当初から、役者たちの所作、発声法、舞台上の大道具・小道具などはほぼ決まっていて、これが代々後継者たちへと受けつがれていくので、いわゆる演出家が存在する必要がない。というより、へたに個人的な意思で舞台上の約束ごとがかき乱されてはかなわない。じじつ、たとえば歌舞伎は国立劇場の建設と前後して国の重要無形文化財に指定されており、それによって国からの手い保護を受けるかわりに、みだりに様態をかえることはいわば禁じられている。いいかたをかえると「オリジナリティ」が公演の良しあしをきめる要素とはならない。いまだに盛況を呈している歌舞伎の人気を支えているのはなにか。それは「役者の良さ/うまさ」であり、観客は名優の演技に惚れるのである。
それでは、かつて「新劇」と呼ばれてもいたヨーロッパ由来の近代演劇の舞台の評価を定めるものはなにか。俳優の演技ももちろんあるだろうが、それとならんで演出家のアイデアであったり、照明や大道具・小道具の見栄えであったり、音楽の効果であったりさまざまである。筆者の経験としても、かつて1年ほどロンドンに滞在したおりに「ハムレット」の複数の興行を観たことがあるが、それらは役名とせりふ以外にいかなる共通点も持っていなかった。そして、観終えるたびに「演出は悪くなかったが、音楽も照明も品がなかった」とか「役者も舞台美術もすばらしかったのに演出はピンボケだった」とかいった感想をもらすことになった。これについては石川淳が軽妙にまとめてくれている。「むかしの芝居が絶対に名優を必要としたようには、新劇はそれを必要としない。舞台の分業が繁盛してくると、名優はかならずしも役者という人間の中にはいない。それはときに演出にあり、装置にあり、音楽にあり、照明なんぞにもあるかも知れない。いい面の皮は見物さ。せっかく芝居を見に来たのに、なにをひいきにすればいいのか。いろいろ手がこんでいて目うつりがする」(『夷齋俚言』「芝居ぎらい」より)
ところで、なにをもって「芸術」とするのか、その定義は人によってまちまちだろうが、その成立の要件に「オリジナリティ」が要請されるのなら、つまり、表現者において、その人格と表現とが一体となった、その人ならではの、その人にしか体現できないものこそが「芸術」なのだとするなら、歌舞伎はそういう意味での「芸術」ではないことになるだろう。
かつてNHK交響楽団の客演指揮者を長くつとめ、日本文化にも造詣の深かったヴォルフガング・ザヴァリッシュがバイエルン国立歌劇場をひきつれて、日本で引越公演をしたことがある。1992年のことだ。このときの演目のひとつがルヒャルト・シュトラウスの「影のない女」だったが、この東洋を舞台とした歌劇の演出をザヴァリッシュはなんと歌舞伎役者の市川猿之助(先代)に託したのだ。とてもスリリングかつゴージャスな舞台を私も堪能したが、この舞台に劣らず面白かったのがNHKが作成したドキュメンタリー番組だった。楽譜の読めない猿之助が四苦八苦しながらも自分のイメージを歌手やスタッフに伝えるさまは興味のつきないものだったが、彼がインタビューで述懐していたことが印象的だった。「自分は歌舞伎の伝統のなかで育ってきた。その因習をなんとか打破しようと早変わりや空中ゴンドラなど、いろいろ試してきたが、今回この歌劇の演出をしてみて、歌舞伎の世界にも舞台全体を統括する眼のようなものが必要だと思った」
それなら、歌舞伎の世界を一人の演出家が統率してその人ならではの「オリジナリティ」を出すとどういう世界が生まれるか。もちろん、現行の「重要無形文化財」に指定された歌舞伎の世界でそれを行うことは不可能だが、その外ならいくらでも可能だ。当の猿之助自身がかつてやっていた「ヤマトタケル」に代表されるような「スーパー歌舞伎」や、今も活動を続けている「花組芝居」の例もある。それでも現行の歌舞伎がそういった「オリジナリティ」に満ちた「新・歌舞伎」にその存在をおびやかされているようにはとても見えない。
考えてみれば、いっぽうで昔から決まった型や所作のなかで、個人芸としての「つや」を輝かせる歌舞伎のような伝統芸能と、他方で演出家を中心に俳優・照明・音楽・美術などの担当者が集団として1回しか存在しない「オリジナリティ」を生み出していく近代演劇との、存立様態のまったく異なるふたつの演劇形態を持ち、しかもそのどちらにおいても、その最高の舞台に遭遇したとき心底から感動させられる我々は、演劇というジャンルにあって世界でもまれなほどに恵まれた国民なのかもしれない。その感動の中にいるとき「芸術とはなにか」などという問いはどうでもいいもののように見えてくる。その昔、太陽の塔の岡本太郎は「芸術はバクハツだ」と言った。「バクハツ」が「表現行為がもたらす感動によって他者の精神を根幹から揺すぶること」を意味するのなら、彼は実に正しいことを言ったのだ。
< 38|いろはにほへと を読む