独吟独酌|御立尚資

3|散る花は数限りなし


 

今年の桜は脚が早く、あっという間にさかりが過ぎてしまった気がする。
満開の桜花は豪勢なものだが、実のところ、いっせいに散り始めて、緑葉が見え隠れする頃の桜が一等好きだ。それも、花びらが惜しみなく散り広がっている様子を見るのが、お気に入りである。
満開を過ぎると、花見の客足はぱたっと落ちる。
そんな日の早朝か夕暮れ時、誰もいない時分を見計らって、一人楽しませてもらう。
花筏という言葉には、いくつか異なる意味があるそうだが、私など、川面に無数の花びらが浮かび流れていく様がまず浮かぶ。


このイメージが刷り込まれているせいか、緩やかなカーブを描く遊歩道に、散った花びらが一面に広がっているのを見ても、花の筏に見えてくる。

まるで、琳派の絵にある川の流れに、花筏が書き加えられたみたいだ、と独りごちてみたりもする。

さて、こういう眼福の時間に相応しい「うた」は何だろう。
記憶を辿ってすぐに出てきたのは、散る花に人の世のはかなさを重ね合わせる和歌だ。

空蟬の世にも似たるか花桜
咲くと見しまにかつ散りにける
(『古今集』詠み人知らず)

そっと口ずさんでみる。

うつせみの よにもにたるか はなざくら
さくとみしまに かつちりにける

流石に千年を超える間、人口に膾炙してきた歌は、口にしても心地よい。
さかりよりも、名残りを尊ぶ心もち。この「うた」や、小野小町の“花の色は移りにけりな”といった和歌が、我々の多くに共有する感覚を作ってきたのかも、などと勝手に想像してみる。

ただ、今の情景に、もっとぴたっと来るものもありそうだ。
そうそう、こんなのがあった。

散る花は数限りなし
ことごとく光を引きて谷にゆくかも
(上田三四二)

何千枚、何万枚の花びらが、風に吹かれて、きらめきながら谷に落ちていく。
きっとその先には、谷川があり、花筏が流れていくに違いない。

次に取り掛かったのが、そう、この花筏と「うた」に、取り合わせる酒選びである。
普通に考えれば、あまり高価すぎないロゼのシャンパーニュ。
色と泡の儚さが、今ここにある景色と感覚と、呼応しそうだ。
もう一捻りして、名残りの時分を愉しみながら、桜花の潔さを感じさせてくる酒はないか。
できれば、古歌から現代和歌へと折り重なっていくイメージとも付合して欲しい。
とすると、ここはやはり日本酒。造り立ての新鮮なものというより、何年か熟成を経た山廃の純米吟醸あたりで、キレの良いもの。
ぬる燗にして、幾重にも重なった複雑な旨味を探し、見つけ出せた、と思ったら、すっとキレ良く後味が消えていく。
これが良かろう。

昔、丸谷才一さんの本で読んだのだが、吉田健一さんは英詩を肴に酒を飲んだという。
英語の詩の一節を“くちゅくちゅと”口中で愉しんでは、盃を傾けるそうだ。
英詩と欧州の酒がなんとも合いそうだが、こちらは和歌と日本酒でいってみよう。
花筏を思い浮かべながら、上田三四二の和歌を小声で呟いてみる。そして一献。
次は、古今集から一首詠じて、一献。
花筏の情景と和歌一首、そして手酌で一献。
独吟独酌は続いていく。

 

御立尚資(みたちたかし)

兵庫県西宮市生まれ。明治期の日本画、R&B、一癖ある醸造酒好き。現在は、京都大学大学院で教鞭をとりながら、大原美術館等NPOの理事や社外取締役を務める。