独吟独酌|御立尚資
4|夏の盛りに
梅雨が明け、祇園祭の囃子が聞こえるようになる時期。
強い陽射し、時にざっとくる夕立、そして風の流れが止まって、湿気がまとわりつく午後のひととき。また真夏がきたことを否応なしに告げ知らされる。
最近は天候不順で、早い時期から真夏日が続くこともあるが、本当に夏の盛りを感じるのは、やはり祇園祭を過ぎてからだろう。
こんな季節にどう涼をとるか。
ちょっと風変わりなやり方かも知れないが、修道士の歌うグレゴリオ聖歌を聴くという手がある。
スペイン マドリッドの北方ブルゴス県に、サント・ドミンゴ・デ・シロスという名のベネディクト派の修道院がある。
ルネサンス以降の聖歌は、複数旋律によるハーモニーを生かした合唱で歌われることが多いが、シロスの修道士たちは、中世以来の単旋律(ユニゾン)の男性合唱で歌うグレゴリオ聖歌を今に伝えている。
ちょっと声明にも似た響きがあって、CDで聞いても身体の奥底まで、その響きが届いてくる。
そういえば、息子が小さかったころ、このCDをかけると何故だか怖がって泣き始めた。どこか遠い世界に連れていかれるような気がしたのだろうか。
このCDを聞きながら、修道士たちが歌っているところを想像してみる。
修道院の建物自体は石造り。壁面や柱の石は夏でも冷たく、触れると肌の熱が引いていく。
天井が高い聖堂の明かり取りの窓は小さく、数も少ないので室内は昼なお薄暗い。
ステンドグラスを通して入ってくる陽の光は、青みを帯びている。
心なしか空気もひんやりとしているようだ。
ミサが始まり、修道士たちの歌が始まる。
入祭唱はSpiritus Domini。主の聖霊は天地に満つ、という聖歌だ。
Spiritus Domini replevit orbem terrarum, alleluia...
歌声は、聖堂の天井や壁面からの反射で、残響を残しながらゆっくりと消えていく。
石の壁、薄暗さ、ひんやりとした空気感。そして遠い世界に連れて行ってっくれるような長い余韻の聖歌。
スペインの修道院で歌われるグレゴリオ聖歌の世界に入り込むと、自分自身が真夏の日本にいることを忘れ、束の間、茹だる暑さやまとわりつく湿気感から逃避することができる。
CDを聴き終え、外の暑さを忘れていられる時間を長引かせるためと言い訳をしながら、少しだけお酒をいただくことにする。
カトリックのミサの聖体拝領では、キリストの血の象徴として、ワインが注がれ司祭が杯をあける。特別な機会にはちょうど濃茶のように、参列者にも杯が回される。
血の盃、なので、赤ワインだけが使われるように思えるが、白ワインが使われることも多い。
私が何度かいただいたミサワインも全て白だった。
やや甘口、とろりとした粘度が感じられる。ほんの一口だが口中に甘みが残りすぎることもなく、なんとなく甘露という言葉が浮かんだことを思い出す。
流石に、涼を求める輩が、聖体拝領をなぞって、似たようなワインを探すのも恐れ多いので、ここは、冷えた辛口の白ワインにしよう。
スペインのものも良いのだが、南仏ローヌの佳品、シャトー・ヌフ・デュ・パプの白を選ぶ。
14世紀、当時のフランス王の意向で、ローマ法皇がアビニィヨンに移されていた。この地の周辺で作られるワインで、その名も「新しい法皇の城」。
濃過ぎず、柔らかな酒質、酸も立ち過ぎないが、しっかりとミネラルを感じさせて、10度前後に冷やして飲めば、誠に夏の一杯に相応しい。
修道士の歌声に想いを馳せ、少しだけ、そう1、2杯だけでやめておこうと自分に言い聞かせながら、少しずつ口に含む。心の中で涼しさを感じながら。
御立尚資(みたちたかし)
兵庫県西宮市生まれ。明治期の日本画、R&B、一癖ある醸造酒好き。現在は、京都大学大学院で教鞭をとりながら、大原美術館等NPOの理事や社外取締役を務める。
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