ときの酒壜|田中映男

10|金環奇譚


 

 高校三年も秋になれば、受験が近くて家族は気を遣い、同級生も思い思いに自分の時間割で登下校するようになる。全然来ないのもいる。ぼくは根津美術館の裏庭に通った。青山骨董通りの通用口を入ると武蔵野の雑木林の残りが続き、木影にヒトの気配はしない。草むらには少し異風の石像が立っていた。その中に円い瞼で唇の膨れた仏がいて、ぼくはアミダ様と呼んでいた。裏庭の草と花に導かれて下りると菖蒲池があった。アミダ様の横で読書して昼寝して、それから渋谷のジャズ喫茶に廻る。當時はちょうどレイ・ブライアント・トリオ「ゴールデン・イアリング」 (Golden Earrings - Ray Bryant (Official Audio)が流行っていた。マレーネ・ディートリヒ主演映画の音楽で、ジプシーが英諜報員を救うのに、金の耳環で女装させ独逸軍の目を眩ましたらしい。
 何十年後かマケドニアのテレビで「ジプシー・クイーン」エスマを見た。ウイーンに戻りテアターZのバルカン音楽フェスでエスマの歌を聴いた。(Esma Redzepova-Dzelem Dzelem & Devla-Madison WI 1997
 顔をすっかり紗幕で蔽い、ぶつぶつ地鳴りのように歌う。痛切な人を呼び出して訴えていた、ようだ。津軽恐山の巫女のようだ。根津さんの裏庭のアミダ様を思い出して楽屋まで行ったら、喜んでくれた。聞けば今日の歌「ジェレム・ジェレム」は、14歳の彼女を見出して呉れた師匠(後に夫)のテオドシェスキに捧げたのだ。その後、何回か会った。うちに遊びにおいでと誘ってくれた。嫁とスコピエ郊外のロマ人地区の豪邸まで行った。エスマは苦労した話はしない。苦労人で、日本公演で歓迎された事、日本人との異同に感動した事、さらにみなし子ばかり43人を音楽家に育てた事を語った。バルカンの民族の歴史について語り、「人は皆が違うから良いのだよ。我が子らは文化を紹介してるよ。お前は日本の文化を紹介しておくれ。応援する」と言った。アミダ様と別れようとしたら全力で抱きしめられた。正面から唇にブチュリとキスされた。
 そこでジプシーの登場する民話を紹介したい。

 昔々ある国の国王に娘が一人いて、結婚はしようとしない。父が、「おいイェレナ、お前いい加減にしろ、一体どんな男ならイイんだ」と聞いた。姫が「父よ、本を読み、歴史を知れば、上に立つ者が威張ると民は苦しみます。なぜか男はことにいけないようね。必要なら私が治めます」。「婿を貰うならどんな男ならイイ?」「婿など貰いません。どんな男? もしも私に見つからずに隠れることができたら。……そんな男はいないわ。でも三度見つけたら首を撥ねます」。
 イェレナ姫は幼い時に歌の精霊に見込まれて手鏡を貰った。姫が相手を思えば姿が鏡に現れる。そこで父王が集めた王子はみんな見つかった。首こそ撥ねられずに残ったが、王子たちはとても恥ずかしい思いをした。情け容赦ないから、王宮の門前雀羅を張る有様になった。「もう王子でなくたってイイ」と、王は広く婿を探した。11月の祭りの時節、山から羊と犬を連れて羊飼が下りた。羊飼のニコは牧羊犬の頭メロの背に乗り、背嚢に羊チーズと熟れた榲桲(マルメロ)の実を詰めて来た。これを市で黒パンと取り替える心当てだ。ニコが姫のかくれんぼゲームの話を聞いた。
「見つけられないように三回隠れるのか、面白い」。まずメロに頼んだ。
「山奥に隠れ場所があるね」。犬に乗って雪山の氷の張った穴に隠れた。寒くて眠った。夜中歌声がする。姫が呼んでいた。
「見える。命知らずな若者、私の勝ちよ」次の日ニコとメロは山の湖に来た。深い底に百年住む親方鰻ボゾフに、どうか隠して護ってくれと頼んだ。ボゾフは湖底の石小屋に潜んだ。メロは仔犬と湖岸で待った。
「おとう、親方は護れるかな」と仔犬。
「むろん。親方はアドリア海から大西洋のサルガッソまで十回行き来した鰻だ。隠れ場所を知っている」。暫くすると仔犬が尋ねた。
「おとう、姫さまはなぜ隠れ場所を見つける」。
「むろん。姫さま、だからだ」。
「じゃあ、おとう。聞くが、そもそもの話、女性は怖いのか」
「そりゃ、アレだ」と答えた父は、マルメロ星雲を眺めるフリをした。
「わしが知りたい。お前もし分ったら教えてくれろ」。
 真夜中過ぎ、歌声が聞こえた。
「羊飼も鰻も見つけた」。姫の勝ち誇る声だ。
 ボゾフは浮かぶと精霊に助けを求めた。三日月が昇って金環の精霊が現れた。
「あの娘は、愉し気に歌ってたから歌の鏡をやったのさ。鏡は歌を届ける時に相手の姿も映すのだ。私が知りたいのは、ニコの気持ちだ」精霊が尋ねた。
「もう吸い込まれてしまって、あの歌う娘と結婚すれば愉しく働けます。媼よ、隠しておくれ」。金環の媼は頷いた。人差し指を唇に当てて、イェレナの衣装と金の耳環を移した。それをニコに着せて耳に金環を挿すと、鏡からその姿は消えた。
「この鏡に映せないもの、それは自分なのさ」。
 イェレナは空っぽの鏡の前で朝を迎えた。金環媼が来てニコが語る。
「娘さん、歌を聞きました。寒くても歌で勇気がわきました」
 そうか。姫様は鏡が歌声を伝えると知った。自分が歌えば人を勇気づけることも知った。すると自分が嬉しいことに気づいた。
「私は得意になって歌を歌っていたのね」。

 父王が退いて王様が代わった。王は妃に耳掃除されながら、よくその話を聞いている、と国人が語る。

 

田中映男(たなかあきお)

1947年、東京都生まれ。1971年、外務省入省。2010年にオーストリア大使を退職するまでの40年間に、海外の任地に8回勤務、80カ国以上を訪問。趣味は茶の湯、陶芸、銅版画など。