ときの酒壜|田中映男
11|菫花冷菓
ウイーンの夏の朝、家の前で近所に住むマヤを見かけた。八十半ば過ぎても足腰が確かで、お手伝いのイーダと日課の散歩をしていた。「庭の向日葵が咲いたわ、見に来る?」とランチに誘われた。
「明日はブリギッテを招いたからシシ(皇帝妃エリザベート)の話が聞ける」
マヤはオーストリアのデンクマール(記念保存の場所)を保存するデンクマールシュッツ協会の会長だ。それも頼まれてではない。自分が好きで小路の名前や銅像の由来に詳しい。そこがブリギッテと合う。ブリギッテ・ハーマンはドイツのエッセン近くで生れた、皇后の詩の師であるハインリヒ・ハイネと同じ〝陽気で冗談が辛い〟ラインランド人だ。ウイーン人の夫と知合いここで結婚した。歴史が面白くて大学に通った。教授に褒められ夫に応援され、国立公文書館と貴族たちの図書館に残る書簡と日記を読んだ。昔の筆記体の手稿だ。それから、皇后の評伝『意志に反して皇后』を出版した。従来の甘い浪漫的な皇后伝と違うので大いに売れた。シシの話が聞けるとマヤが言ったのは、ぼくの友達ボルフガング・リヒテンシュタインがシシの遠い親戚(シシーの弟の孫が母だから相当に遠いが、習慣としてグローセ・タンテ[大おばさん]にあたる)なので、お前にも関心があろうという意味だ。シシはウイーンの社交を嫌って、夫と子供を置いて地中海の旅に出た。「当時世間は関心を払わなくなったよ」とボルフガングから聞いた。ブリギッテの本を読むと皇后は努力して献身もしたようだ。
マヤの父は東欧からウイーンに来て成功した猶太資本家だ。ゲルングロスという百貨店は今も残るが、戦前のオーストリア帝国最大の、初めてエレベータを備えた近代的なデパートだった。ドイツに併合される一年前に興奮した群衆が投石で店のガラスを割った。ナチスが来て父は報道カメラの前で敷石掃除を命じられた。歯ブラシでだ。マヤはそれより前、父同士の約束で、珈琲豆輸入商ユリウス・マインルの四代目に嫁していた。結果としては離婚はしたが、五代目を生んだ。今息子の五代目は親代々の商売から手を広げて銀行を作り、銀行は今刑事裁判で係争中だ。
マヤはお洒落で芝居が好きで英語劇団の女優だった。時として〝季節は変わる。甘い夏の蕾よ〟などと、真夏の夜の夢のテイタミアの詞を口にするくらい若々しい。デザイナーの山本寛斎さんが来た時、よほどに考えた。長い付き合いで、体裁だけの観光ならしない。「ウイーンの住文化を見たい」と言われた。建物のカタチより、そこに住む本物のウイーンのマダムを見せたいと思った。16世紀ウイーン市民は、トルコ軍包囲に備えて籠城する構えの邸宅を作った。その時代の家を移築して、18世紀のマリア・テレージア治世下のウイーンの家具調度を並べて、二つの時代の暮らしの感覚を調和させたマヤの住み方を見せようと考えた。お茶に招かれた後、家を出てから、寛斎さんが「コレは偶然目に入ったんですけど、あの方の下着の紐は赤い薔薇の刺繍でした。お洒落ですね」とぼくに言った。
翌日マヤの家に行くと、イーゼルの上に扇で顔を隠した皇后の写真がある。その前の机に紫色の氷菓が載せてある。ブリギッテが「菫の花の氷菓は夏の旅で皇后が好んだ。貴女のイーダが作ったのね」とマヤに礼を言った。マヤの家は料理人も女中もハンガリーの同じ村から代々呼んで来る。イーダから作り方を聞いた。菫の花をリキユールに漬けて色と香りを移して菫水ファイルヒェン・バッサを作る。別に取ってあった花弁を木桶の中で搗いて、分量の砂糖と菫水と雑ぜる。檸檬一個を搾り入れると「一瞬で色が青紫から赤紫に変わりますから」。木桶を氷に埋めて凍って来たら攪拌する。凍ったら攪拌を繰り返す。今は冷凍庫があるから数時間で出来る。シシの料理人は氷塊の冷蔵庫だったから、一晩かかったらしい。
ブリギッテは物言いこそ直截だが思慮深く親切なのだ。「日本の男は会うとまず笑う、教育のせいか」と聞く。「違う、ドイツ人は何を話すかが大事で自分の印象より、論理が通っているかどうか気にする。日本では印象を気にする。相手が好く思ってくれたか、まず人と仲良くして緊張をほぐせば話は半分くらい済んでいるのだ」、と答えた。「それでは日本人は気持ちが迸る事だってあるだろう、それは抑えているのか」と聞く。それで、ローレライ記念碑の除幕式にボンの日本人記者会が招かれた時の逸話を話した。地元の人から説明を受けるより先に、誰からともなく「なじかは知らねど」と合唱が始まった。気持ちが迸れば十数人の記者の、幼い記憶が迸って合唱するのだ、と話した。現地紙が「日本人は小学校でハイネを暗記させる」と報じた。「お前も歌ったか」と聞かれて、高校の時の記憶が蘇った。音楽の先生は芸大のチェロの講師で音感を大切にする方だった。期末試験で一人づつ前に出てピアノに合わせてドイツ歌曲など歌う。先生はぼくの顔を見て、「ああ君か、歌わなくていいよ。65点(合格最低点だ)と書きます」と言われた。以来歌わないと明かしたら笑われた。ブリギッテは「日本の男が中々歌わない理由がわかったけれど、ハイネが好きなのね」と、翌日ハイネの『歌の本』を贈ってくれた。
田中映男(たなかあきお)
1947年、東京都生まれ。1971年、外務省入省。2010年にオーストリア大使を退職するまでの40年間に、海外の任地に8回勤務、80カ国以上を訪問。趣味は茶の湯、陶芸、銅版画など。
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