ときの酒壜|田中映男
12|下田のユーディット
ある日ヨーゼフ劇場のヘリベルト・サッセが来て、日本の芝居をやるので何かと助けてくれないかと言う。それは『路傍の石』の山本有三による『お吉物語』をドイツの作家ブレヒトが翻案した戯曲であった。1930年に英訳されたのをブレヒトが、唐人お吉をペルシャの将軍ホロフェルネスの首をとったユーディットに重ねて考えた。彼は1939年フィンランドに亡命して、そこで知合ったヘラ・ヴオリウオーキが借り上げた夏の別荘で書き始めた。彼は去り、ヘラが足りない箇所を足して『下田のユーディット』が完成した。サッセが、「ヘラの遺族が断っていて世に出なかったが今度出版される。ウイーンの俳優一家ヘルビガー家から、新進のマーヴィを選んで、自分の演出で9月11日世界初演をする」というから、ぼくは東京に相談した。援助は出来ないと言われた。大使館で出来る範囲で支援することとした。
サッセの語る粗筋:
ペリーの黒船が江戸湾沖に迫った150年前、旧約聖書のユーディットの如き女の英雄が出た。お吉は下田一の売れっ子芸者で17歳であった。米国領事ハリスは将軍に面会して大統領信書を渡して開港を要求するつもりだが、狡猾な日本役人は言を左右にして返答を引き伸ばし、ハリスは「日本人は嘘つきだ」と決め付けて軍艦の大砲で江戸を砲撃すると宣言した。幕府は、下田奉行を使って無理やりお吉を鶴松と分かれさせて、ハリスの「看護人」として差し出した。胃を痛めたハリスは妾ではなく、看護婦を要求していた。お吉はわずか3ヶ月仕えたに過ぎないが、高給を貰ったこと、ハリスの頼みを聞いて、ご禁制の牛乳をハリスの元へ運搬したことでのけ者になされた。唐人お吉(アメリカーナー・オキチ)と呼ばれ辱めを受けた。
ハリス勤めを終えたお吉は、鶴松と所帯を持つ。だが、酒癖は進み、日本人から蔑視されたお吉は我から身を引く。すさむ生活に健康を害したお吉に米俵が恵まれたが、お吉はきっぱりと情けを断り、餓死の道を選ぶ。
初日を見た後に書いた[感想]メモがある。
ヘルビガーのお吉は個性が抜きんでていた。第一幕途中で客を驚愕させたのは、いきなり客席に光が当たり、左桟敷にドイツ人新聞記者、右に米国総領事夫妻が観覧中だったこと。彼等は今の視点からお吉と日本人を論じる。男性と女性、旧大陸と新大陸の視点が交錯しつつ盛んに議論する。ブレヒトの未発表作品だから、プレッセ紙や独シュピーゲル誌記者が取材に来ていた。議論を聞くと脚本にヘラの手が入っていると感じる。女性の自我の成熟と発展の歴史として良くできたドラマになっていた。面白く見た。外人のデザインした太い縦縞の斬新なキモノは、日本人には見慣れないが、外人の女優さん達から、エキゾチックでしっとり女らしい魅力を引き出していた。これはキモノが持つ奥深い、幅広い文化的可能性を引き出した舞台衣装の好例であって、是非日本人にも見せたい。鶴松の青年俳優は左利きで、ギターの様にして三味線を爪弾く、鶴松の物憂い気分が出ていた。
ぼくと妻は舞台稽古に招かれ、座敷や着物について訊ねられた。サッセも俳優も聞きたいことが多かった。丁度ロシアがグルジアに攻め込んでいた。ホーフブルグ宮では連日国際会議だった。会議の後、フィンランドのキルステン・カウピ大使が稽古を覗かせてと頼んだ。仲の良いポルトガルのアナ・マルティニョ大使も来た。二人は優秀で活発な大使で目立った。会議でも言いたい事が一杯ある様子で、男と女に分ける目線には敏感だ。カウピの家は16世紀来のもので、型押しで鈍色に光る金唐革の壁があった。そこに羅馬の壺が置かれて、人の造った桜の花が活けてあった。アナさんには昔日本のボーイフレンドが居た。「昔よ。彼はポルトガル甘橙のデザートが好きな人でした」と言う。二人と議論すると、視力検査の途中でレンズを入れ替えたくらい、見えてくる景色が変わる。お吉が「女ながらも」身を挺して米軍の砲撃を止めたと聴いて首を傾げる。それはどうかな。「決断には手がかりが必要よ」。お吉は、生まれ故郷下田と幼友達が殺されないよう牛乳を搾って運んだのか、それとも代官が言うように、江戸は首都で砲撃されたら被害が大きいと配慮したのか、判断基準が何か知りたい。更にカウピには彼女の感慨もあった。曾て仕えた外務大臣が偶然ヘラの甥に当る。「ブレヒトは勝手に来て勝手に去った。叔母は一人で書き上げた。別荘を使ったのにブレヒトに費用を負担する気は無かった」と聞いて良い印象を持たなかった。ユーディットも結局は「男の代役」で「女ながらやり遂げた」扱いだ。お吉が売れっ子だったとか17歳とかは無関係で、ブレヒト乃至ヘラがお吉の信条をどう描いたかがポイントです、という。稽古を見てカウピが言った。「役人は甘えて利用した」。アナが言う。「女の母性に訴えるのは男の発想ね。ハプスブルグにも例があった。ブラジルで非道な夫に仕えたレオポルディネよ」。その話では、ナポレオンに破れたハプスブルグ皇帝フランツに13人の子供がいたが問題が多かった。性格が善良でずぬけて知能が高いレオポルディーネを、新大陸に進出する手掛かりにした。星の観測と鉱物収集が好きだった娘を帆船に乗せ、九十日かけて、海賊船が横行する大西洋を越えさせ、リオ・デジャネイロに亡命中のポルトガル王室に嫁入りさせた。知性に乏しく粗暴で不実な夫に暴力を振るわれ、絶望の毎日だった。ブラジルの国民を支える芯張り棒となって支えた。結局孤立無援の彼女は、しまいに自らの心に基準を求めた。子供の時から、ノートに自分で決めた人間としての在り方を列挙していた。ブラジル国民がポルトガルから独立する事を望んだので、舅と夫に代わり独立を宣言した。今ブラジル人は彼女を母(マンエ・ドス・ブラジレイロシュ)と呼んでいる。星の光を観測した彼女の息子は、ミナス・ジェライス州に母の名を冠した町を開いた。その河から時折ピンクのダイアモンド原石が現れるそうだ。
初日の後夜遅く、公邸の庭を使って打ち上げの会を催した。劇場関係者に両大使はもちろん、ご近所にも声をかけた。三百人くらいが夜中まで議論を楽しんだ。マーヴィはその後結婚して子供を産んで離婚した。
田中映男(たなかあきお)
1947年、東京都生まれ。1971年、外務省入省。2010年にオーストリア大使を退職するまでの40年間に、海外の任地に8回勤務、80カ国以上を訪問。趣味は茶の湯、陶芸、銅版画など。
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