ときの酒壜|田中映男
22|アフリカ聯話10 クルード・オイル・ビジネス[上]
ナイジェリア北部バウチ州ムアズ知事が「初代首相タファ・バレイアの記念館を見ろ」と勧めます。「私が敬愛する同郷の先輩でお手本だ。ナイジェリアの今を知る入口になる」。そこの案内人が「これがクルード・オイルです。故首相は死の直前までこの瓶を見詰めてたんですよ。祖国の発展の将来が見えたのだと思います」と誇らしげに小瓶を指して言いました。茶色い液体が2センチ残っています。ボニー島の良質の原油で、「発見した」のは蘭英のロイヤル・ダッチシェルです。タファ・バレイアは苦学して高校の先生になりました。政治の道に進むと、選んで英国と協力する党派に加わりました。当時アフリカの東西に植民地を持つ英国は考えた末、ナイジェリアとガーナを独立させ、ナイジェリア首相にバレイアを選びました。彼は南北の抗争を鎮めようと努めて、結局は暗殺されました。シンプルな寝台の鐵のコイルの上に鐵縁の丸眼鏡が置いてありました。
その朝公邸のライナス君が近寄って来ました。「お話があります。昨夜警備員が部屋の入口に立って悪い目付きで私の携帯を見ていた。朝、なくなっていた。取られたんです、市場で売れば食費になる」。
ライナス君には要領の良い処もあるけれど、何かをせがむのは珍しい。幾らなの? ウセの泥棒市で3万ナイラです。お金を渡したら、ライナスもサンキューと受け取りました。遣り取りに違和感がなかったのは、会話が当たり前に感じられたからでしょう。もし誰か出来る人がいるんなら、そうすれば良い。お金で足し前をすればいい。する側とされる側、両方とも順番で巡って来る、総じて調和があれば好しとする、その感覚があります。日本から来て此処に棲むエンジニアリング会社の渡邊さんの例というのもありました。定年後希望してアブジャに残り、本当に毎日NNPCナイジェリア石油公団に顔を出して、お茶をしていました。公団の幹部が話してくれました。「もう嘱託なのに毎日公団の門をくぐる。来たら誰でもお茶に誘う。門番も運転手も総裁秘書、経理部長より上の幹部なら全員と顔見知りで、仲良くした。ある時幹部会で誰かが聞いた。ミスター・ワタナベはなんで毎日来るの。なんだね、調べたら支払いがまだだ。もう我々の仲間じゃないか! 催促もしないで毎日来てくれる、仲間みたいさ。払ってやろうと皆で決めた」。ワタナベなら払ってやろうと云う気分になっていた事に胸を突かれました。この人達には仲間が大切なんだ。返済は予見されていなかった筈です。予算の外で、スポット市場の原油販売枠を塩梅して原資を拵えたのでしょう。多分。
ところで原油の採掘と美しい自然の両立は難しいものです。欧米メジャーが政府に払う採掘権料の13%は憲法の定めで地元に廻ります。けれども自然の恵みで生活していたイジョー族、イシェキリ族、ウロホボ族には不足で不満です。見ていて政府の汚職に気が付きます。さらに深刻だったのは心の問題でした。「人は一旦水の精霊オウアマプに預けられると信じているらしい」。これはムアズ知事もビジネスマンのワンリも知っていました。赤の他人の精霊が育てるからこそ、矢の立たない戦士になれます。でも、精霊にも人と同じ欠点があります。怒りっぽいようです。水中で廻る命の循環を乱すと怒ります。朝霧の中で水鳥が蝦を漁る沼地には、だから殺虫剤は撒いてはいけないのです。カーター大統領財団が風土病対策で薬を撒こうとして断られた例もあります。寄生虫を呑んで育てる水蚤を殺すためだ、と説明して却って怒られました。「長い歳月続いた生命を断ち切ってはいけない」と。この薬はWHOに認められた薬です。希釈して蚤の運動神経だけを狙います。それでも祖先の霊を祀る古池には薬を撒かせなかったそうです。
僕が来てから油田地帯の治安は悪くなりました。人質の国籍は英米人から独仏西、韓国、トルコ、ウクライナまで広がりました。150人、260人と倍増し、3年目は600人になりました。人質にとられたら大ゴトです。マラリア蚊に喰われ、糖尿や高血圧の薬さえない。攫われたら、たいてい報道関係者と一緒に、その国の大使が薬を持って来ます。誘拐は一面記事です。交渉は犯人の青年たちと村の長老の間で行われ、人質も大使も何が起きているか知りません。人質は売り買いの対象にもなります。陸軍経由で交渉の進展を聞きます。アブジャで情報交換の会を始めると、英国のゴズニー大使は「昨日海戦で海軍が敗けた。戦では叛徒の方が弾を当てる。陸戦では五分だが海戦では劣勢だ」と吐露しました。大使館は日本企業と連絡網を作り、毎日情勢を送ります。引上げる会社も出ますが、ボニー島に残る会社がありました。毎朝ラゴスから無事を確認して貰います。エクソン・モービルが発注した原油貯蔵と石油精製のプラント工事をフィリピンと韓国の企業が下請けして、その施工管理の監督を日本人が引き受けたのです。現場と居住区は鉄条網の中で「ナイジェリア陸軍が24時間警備」しており、安全な筈です。そうだろうか? 地図をみても不明です。陸軍大丈夫か? 本省領事部に親元企業の説得を頼むと、逆に、工事完了まであと2カ月半、違約金の問題もあるし待ってくれ、と懇願されてしまいました。
本省は貴見はどうかと聞きます。エクソン・モービルの米人社長、スティーブンがやって来ました。「会社の飛行機で一緒に現地を見て欲しい」と言う。出張の可否を請訓したら、「南部クリーク地帯は最近外人誘拐事件が頻発する最も危険な場所である。貴使は現地滞空時間を可能な限り短縮して帰ってきて報告せよ」というのです。どうしたって結局は誰かが行って現場を見る必要があります。イジョー族が高速艇で川を下り、日本人を誘拐する危険はないのか。彼らはそこで育って暮らす。誰もが血縁か親戚なのだ。とにかく現場を見てから判断しよう。
田中映男(たなかあきお)
1947年、東京都生まれ。1971年、外務省入省。2010年にオーストリア大使を退職するまでの40年間に、海外の任地に8回勤務、80カ国以上を訪問。趣味は茶の湯、陶芸、銅版画など。
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