ときの酒壜|田中映男

3|シェーネライヒェ


 

11月は萬霊節、墓参りの季節でウイーンの市内から中央墓地まで、墓参りで電車もバスも車も混む。祖先がトルコ軍や仏軍に攻め込まれたし、黒死病にも苦しんだ。そうした記憶が街に残るせいか、死と死者に格別な接し方をしていると思う。言葉にすれば諦めとお祭りを重ねた菱餅か。そのあたりをウイーンっ子に尋ねた。シュテファン寺院でヘルムート・ツィルク前市長の葬儀に一緒に参列した時だ。グストルは老舗注文服屋、トニは老舗菓子店の主で、三人は舞踏会で仲良くなった。大聖堂には立ち見の市民も含め一万人は来た。今朝まで市庁舎に棺を置いて、五日間弔問を受けた後だ。みんな市庁舎と聖堂と両方来るのかい、と聞いたら、左からトニが言う。
「ぼくは両方だ。奥さんが舞台衣装を作る上得意だ。ウイーンではね、友人は危篤の知らせで駆けつけるのさ。本人に顔を見せて、最後のお祭りだから見に来たよ。で、アア君も来てくれた、と喜ぶ」。右からグストルが言う。
「生死は空の上、ヘア・ゴットが決めるから。決まったら、ぼくらは諦めて召されて行く。召された友を豪奢に見送るのさ。『シェーネライヒェ(美しい躯)』とは、人生最後の舞台で見栄えがしたヨと褒める言葉さ。我々は簡素な暮らしを選ぶけれども、愉しく生きる。多少の音楽と歌があって時に乙女とワルツを踊れたら、それで満足さ」。するとトニが言う。
「それと今年の新酒があればいい。ウイーンはね、最後までは頑張らないんだ、だからプロシャとの戦争には負けたし、皇帝もまだ宮殿を完成させていない」。
今日は二人が同じ意見だが、対立する時がある。トニが自説を展開する。見事な立論だ。議論慣れしている。そこへグストルが正反対の見解を持ち出す。同様に立派な論拠を示す。感心するが、そこで議論は終わり。自分の正しさを証明する努力はしない。頑張らない。「うん、それも本当だ」と頷いて次の話題に移る。欧州論理学で煩く言う、対立項の不一致が消える。それも在りこれも在りだから「絶対否定」が役に立たない。だからしてウイーンの人間関係は優しい。ウイーン・フィルはティンパニでも音が柔らかだと1906年ロンドン公演で『タイムズ』が書いたのはこのことだ、と納得した。トニが続ける。
「亡くなったら、葬儀屋は家で一番良い部屋を片づけて見事に飾り付ける、六頭立ての葬殮(そうれん)馬車を玄関に横づけし、寝台から馬車まで絨毯を敷いて、六人のトレーガ(肩担ぎ人夫)が馬車まで運んで、近所の教会が鐘を鳴らす」。遺族が気を配るんだねと言ったら、グストルが「本人が寝台の真ん中で眠れる如く麗しい顔で見舞い客を受けることが大事サ。だからベバールング(顔見世展示)を見てやるのさ。君だってツィルクを市庁舎で見たろう」。
ツィルクは親日家で、ウイーンと葛飾区を姉妹都市にした。桜を植えて桜祭りを始めた。「彼だろ、飛行機の中で日本の映画(「寅さん」)を見て、監督に直接頼んだ」。「そうさ、それで日本のコメディアンがウイーンで舞踏会に出る映画が出来た」。二人が話す。
ツィルク夫人のダグマール・コラーは、歌手でミュージカル女優だ。『ウイーン気質』の踊り子役が見事だった。天皇誕生日レセプションには、毎年来てくれる。今日は喪服に黒眼鏡の姿格好が似た三人連れで、最前列に座っている。
あれは誰か聞いたら、「妹と娘さ」「ぼくの店にトルテを食べにくる」とトニに教えられた。
モツァルトとブルックナーのミサ曲が終わり、曲調が変わった。「美しき青きドナウ」だった。1866年プロシャに破れて、ウイーンの街は火が消えた。舞踏会が皆中止になった。街の商店主や医師弁護士で作る男声合唱団がヨハン・シュトラウスに、せめて歌だけでも作って貰おうと作曲を依頼して生まれた曲だ。旋律が穹窿を昇り、天上で反転してゆっくり降って来る。長いワルツだが、更に緩やかに奏しているようだ。祭壇前の棺に一人一人花を手向ける。棺はこの後、聖堂入り口に待つ六頭立ての馬車まで敷かれた絨毯の上を運ばれる。ヴィーナー・シンフォニカー(ウイーン・フィルは海外公演中らしい、とトニが囁く)の弦と菅の音が大聖堂を満たしてゆく。ゆるい三拍子にかぶって鐘が鳴り始める。トルコ軍から奪った青銅砲を集めて鋳造した巨大な鐘プリムリンだ。重量21頓の重みが床に響く。これから棺が中央墓地に運ばれて地中に沈められるまで打ち続け、市中の教会の鐘がこれに従う。
司教の合図で、六人の男が棺を担ごうと現れた。その刹那、葬列を一人で止めた者がいた。女優ダグマールだ。長身を漆黒のドレスに包み、黄金の丈なす髪を背に束ね、言うに言われぬ角度で膝を曲げ棺の頭部をしっかと抱いたまま動こうとしない。棺の上面を撫でる。近くの席からは、あれは令嬢か奥さんか、と尋ねる声が聞こえる。黒い背中の線に艶があり脇に立つ娘と妹より姿勢は若やいで見えた。
「シェーネライヒェ」とグストルが漏らし、「シェーネライヒェ」とトニが応じた。ウイーンでは最高の褒め言葉だ。

 

田中映男(たなかあきお)

1947年、東京都生まれ。1971年、外務省入省。2010年にオーストリア大使を退職するまでの40年間に、海外の任地に8回勤務、80カ国以上を訪問。趣味は茶の湯、陶芸、銅版画など。


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