ときの酒壜|田中映男
4|ドナウの古い葡萄山
クレムスはドナウに面したバッハウ渓谷の町だ。陽光に照り映えて明るい丘陵が連なる。年末に友達を訪ねた。彼の耕す畑をプファッフェンベルグ、坊主山と呼ぶのは、畑の多くが僧院所有だったからだ。
「ミサに葡萄酒はつきものさ」雪の丘陵を降りつつバートがいう。
「ここは二千年葡萄樹を育てた。歳が長けるころ葡萄は深い眠りに入る。我を忘れて(セルブストフェアローレン)眠る。春は育ち夏は茂り秋は実りで忙しい。彼女たちが」と彼は続ける。「彼女たちが我を忘れるのは年末だ。クリスマスの後、新年の公現節エピファニまでの十一日間、十二夜をラウネヒテと言う。天は荒れ人は格別に敬意を払う。暦の隙間で人間の時間は停まる。土地の民話では、ヴォータンと眷属が狩りで空を巡幸するので、村では今の時期、弓や銃は禁忌だ」
「冬、何を撃つんだい」
「森から兎が来る。昔、鉄砲で撃った男が怖い目に遭った、というのは伝説だが……夕食をどうだい?」と食事に誘われた。
「これからグラーフェンエッグのボムスの城を尋ねるつもりだ」と断った。
もう一人の友人ボムスが、この話の起こり。ボムスは、メッテルニヒ・シャンドール家の最後の姫になる大叔母から末期養子に指名された。城と葡萄畑を継いだが、葡萄酒作りはサロモン家に任せたわけだ。その酒をぼくはボムスから教えられ、坊主山を尋ねてバートと出逢った。そういう順番だった。
ぼくが出逢った時、ボムスは墺日協会の理事長だった。加えてウイーン楽友協会をはじめ沢山の協会の世話人を引受けていた。日本との縁はサントリーのお陰だ。「うちの酒の輸入を計画して、私共夫婦が日本に招かれました。お陰で日本とその文化を気に入りました。それが墺日協会に入る入口でした」とボムス(これはプチ・ノムで本名は長い。幼時に英語で爆弾をボッムスと発音する音が面白くて、何回も繰り返すのでそう呼ばれた)から聞いた。こういう思い出は幕間に語られた。
楽友協会の切符は買い難い。でも支配人アンギャンは協会のスポンサー(理事)用と外国大使用の桝席を設けていた。空いていたら座れる。その桝席で我々は隣同士。ウイーンフィルの音は柔らかい、やはりウイーン料理と葡萄酒のせいだね等々と、飽きずに音の話題を交す。ボムスに最初に供された白葡萄酒がメッテルニヒ・サロモンの葡萄酒だった。黄金色の酒を「スッキリ飽きのこない葡萄ですね」と褒めた。「プファッフェンベルグのリースリングですよ。命の精霊です」と教えられた。
そして、自分はドナウに近い平城を大叔母から相続した。大戦で壊されたのを二十年かけて再建した。「見ますか」と招待されたのに、ついぞ行かないままだった。悔いていた。そこでクリスマス過ぎの今日の雲行きを見ると、雪模様だがそれでも行こう、と出立したわけだ。
城に着くと雪だった。城の再建は丁寧な良い仕事だった。大叔母はボムスの人柄を見込んだのだろう。古材で復元した騎士の間は、戦災を感じさせなかった。帰り際に城の売店を覗いたら古い本がある。売店の売り子が、おや最後の一冊ですね、と売ってくれた。1947年初版で筆記体活字だった。タイトルは、『プファッフェンベルグの夜、またはドナウの古い葡萄山』。
「とっぷり日も暮れてから、私は隣町を出立してクレムスに向かった。葡萄畑と街は暗冥に沈んで空には雪が舞っていた。私は石の隧道を抜け、重くなった靴の雪を落とそうと、敷石を脚でトントン叩いた。その時夜中の時鐘が鳴ると、見覚えのない、恐ろしく歳をとった建物の門が開き、地下のホールへ繫がる長い歩廊が現れた」。葡萄山にゆかりや心残りを持つ精霊が、年に一夜クレムスに集まる。「ラウネヒテの今宵はプファッフェンベルグの夜なのだ」と始まる。城のカフェーに移動して極薄の林檎パイと珈琲を注文して読んだ。
「私は石を十二回踏む合図を、それとは知らぬままにやって紛れ込んだのだ。夜会には畑を所有した国王、公爵、大僧正が来る。肩に木桶を担いで農夫が通る。羅馬兵は六人で骸骨をぶつけ、羅語で数取り唄を輪唱する。中世の戦争で来寇したスエーデン騎士や女帝の御用達商人が現れて身振り手振りで久闊を叙する。誰もが違う時代の衣装で交わす挨拶は、聞いたことのない言語だった」
昔を懐かしむ空気が好ましかった。翻訳して紹介するため作者を探した。エドゥアルド・クランナーはバッハウ出身の作家で地元で市長も務めた人物。その人の未亡人と娘さんを見つけた。翻訳許可を得て訳した(未刊)。
ボムスはその二年後に孫と遊んだ翌朝、88歳で逝去した。ワイン輸出の計画はバートが継いだ。
毎年この季節、ぼくは、ボムスがクレムスのどこかで夜会に出席している姿を空想する。
田中映男(たなかあきお)
1947年、東京都生まれ。1971年、外務省入省。2010年にオーストリア大使を退職するまでの40年間に、海外の任地に8回勤務、80カ国以上を訪問。趣味は茶の湯、陶芸、銅版画など。
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