ときの酒壜|田中映男
5|ウイーン気質 その一 ─ ワルツの流行
洋服屋のグストルと菓子屋のトニと夜10時にカフェ・ハベルカで待ち合わせた。フワフワなのに甘くないブフテルンの焼きあがりを待つ。ハベルカのブフテルンは麦酒や葡萄酒とも合う。夜遅いウイーンで人気がある。
ウイーン気質を知るにはワルツがぴったりさと聞かされた。「都会の真ん中で二人だけの孤独を感じるよ」と。二人が大学生の家庭教師を連れて来た。その指導は厳しく、一旦私の肩甲骨を抑えて回り始めると、私を見詰めて「目を逸らせば目が回るわ」と脅かされた。
トニがいうに、ウイーン気質は基本が後ろ向きで「詰まる所こうさ。大抵歌か芝居か、自らの才能に自信ありさ。でも引っ込み思案で、自己主張が嫌いなんだ。才能が転がってる街で、劇場も定員がある。仕方ない、親代々の稼業を継ぐね。けれど、神様が肩に手を置いて、トニよ前で歌いなさい、と呼ぶのを待っている。そういう不機嫌さなんだ」
彼自身は歌劇場の横から応募して、審査を受けて通行人役で舞台に出演する、コムパルスリと呼ばれる。
「出発点はゼロだ、そこから後ろに六段階。グランティヒ(機嫌がよくない)、ズダー(むっつり)、ゼムパ(心が閉じてる)、メッチュカット(滅茶苦茶)から、ネルゲルン(不平を漏らし)て、ついにラウンツェン(世を呪う)、と順に後退する」
「ナポレオンがウイーンに侵攻した日、メッテルニヒは市中に密偵を放った。皇帝フランツに、みなラウンツェンの様子ですと報告した。皇帝が、うんそれならイイと答えたくらいさ。そして、市民の四分の一は毎晩踊りに出かけております、舞踏会場と料理屋でワルツを踊っております、と報告した記録が残っている。なんだか羨ましそうじゃないか」そういうグストルはアナ教会の合唱隊で歌っている。
「ラウンツェンの先はどうなる?」「世の中は皆××くらえと罵る、ホイリゲ酒場に行って新酒を一杯やって、女の子とワルツを踊っていると素に戻る。戻って憂鬱なウイーン子として、またやり直しさ」
「ワルツで機嫌が直るんだね」
「君が左廻りワルツを出来れば判る。浮遊する、生きたバロック芸術さ。君が見事な左廻りで近づいたら皆譲る」
「両親の話だ。冬の朝踊りから帰った両親を門番が迎えると、ご機嫌だ。舞踏会の朝帰りさ」「昨夜子供たちは両親がホワイトタイと肩を露わに出すロープ・デコルテに着替える部屋を覗いて女中に追い出された。だから上機嫌が判らない。戦前のカフェは男の世界でね、女性単独では入れぬ。主婦は普段知らない世界さ。舞踏会の翌朝は特別さ。母は祖父に、脚を組んで給仕に紙巻きの火をつけさせたわ、と自慢した」
「立派な夜遊びだ」
ワルツの特徴は何か家庭教師に聞いた。
「それまで床を摺っていたから、百姓流に撥ねるのが新鮮だった。身を寄せて肩に腕を廻して回転するのでエロティークよ。二人の間に浮遊感があるわ」そういうものかと感心して叱られた。
「ホラ、私の股間に宛てた腿を緩めた! 右に行くの! 左なの? 前方の状況を瞬時に見定めて脚で伝えて!」ぼくは、右左右アインス、ツバイ、ドライと数えながら隅まで来たら、脚を逆にして左に回る。浮遊感も孤独感もほど遠い。翌日ハベルカで二人に聞いた。
「祖母様はシュトラウス父の店で踊った。女性も踊る相手を選べたと言った。貴族のメヌエットは招かれた全員と踊る。全員順に話したから公平だが物足りない」
「逆にワルツは社交を壊すと批判を受けた」「貴族は踊らなかったのか?」
グストルがオヤ、と目を見張り、銀のステッキの握りに顎を乗せて、ぼくの方を見やって言う。「ワルツが流行った理由は王宮舞踏会で踊られたから。その番組表でワルツが伝来の演目を隅に追いやるのはすぐさ」「それじゃ、大人気だったんだ」
トニは一旦しわぶいてから、胸の前で白い絹のショールを揃えた。さり気なく言う。「どこに女と体を寄せるのを疎ましく思う奴がいるのかね」
この二人を見ているうちになんだか舞台を見ている気がして来た。
グストルはオットー・シェンクが好きでニューヨークでオペラ演出まで見て来た、トニにもヘルムート・ローナーという贔屓俳優がいる。俳優の方でも19世紀末のヨーゼフ・カインツはウイーンを回って粋な連れを見ると、その仕草を舞台に写した。それを見て店でまねる。ウイーンの街の情景は舞台の投影だった。
ぼくは一度グストルと、シェンクの音楽講演を見た。小編成だが本物のオーケストラを指揮して、ベルリンとウイーンの指揮ぶりの違いを演じ分けて笑わせた後、話が日本人のワルツに及んだ。拍子を真面目に正確にとる、「正確だよ。ワンツースリー、ワンツースリーと振るのさ。スリーが来ることを、信じて疑わないんだ。でもねえ人生では」と言って、ワンツーと脚を出して間を置くと、パハップス・スリイ、恐らく三と言うと舞台の袖に入った。客席の笑いと拍手で、スリーの瞬間を知るのはヘア・ゴットだけさ、とウイーン子も得心のいった事がわかった。
田中映男(たなかあきお)
1947年、東京都生まれ。1971年、外務省入省。2010年にオーストリア大使を退職するまでの40年間に、海外の任地に8回勤務、80カ国以上を訪問。趣味は茶の湯、陶芸、銅版画など。
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