気取らず 威張らず|清野恵里子
13|時は流れて
母方の曾祖母は、山間の温泉地に古くから旅館を営む家に生まれた。そこに、父の兄の長女、つまり私の従姉が嫁いだ。曾祖母の誕生から従姉の結婚までの間には、おそらく150年を超える歳月の経過がある。
従姉は私よりも11歳年上で、早稲田大学文学部に入学したのが、50年代の終わり。演劇サークルに在籍していたと聞く。
卒業して某テレビ局で働いていた彼女は、結婚を機に東京の住まいを引き払い、ひと箱の段ボールを私に送ってくれた。
箱の中身は、従姉が学生時代から熱心に通ったATGの一抱えほどのパンフレットと一冊の本、レイモン・ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』。タフタのような玉虫色の光沢を放つ赤紫の布を貼った、いつまでも手元に置きたくなるような美しい本だった。
1961年に設立された日本アートシアターギルド(ATG)といえば、非商業主義的な「芸術映画」(言い換えれば少々難解な作品)を配給、制作した会社である。
1962年に公開されたポーランド映画、イエジー・カヴァレロヴィッチの『尼僧ヨアンナ』を皮切りに、当時の映画青年たちを熱狂させた国内外の名作が、ATGの上映館であるアートシアター新宿文化、日劇文化、後楽園アートシアターの三館で公開された。
幼いころからずっとあこがれの存在だった従姉の影響もあったのだろう、60年代の最後の年、大学に入学すると、いつの間にか映画三昧の日々を送るようになっていた。
ATG初期の映画は、名画座や、大学の映研主催の映画祭などで観ることができたし、そのころ制作された、たとえば大島渚や、新藤兼人、実相寺昭雄、篠田正浩、吉田喜重などといった独立系の監督たちの作品は、公開を待ってアートシアターに駆け付けた。
そういえば、かなりな回数通ったのは新宿文化だったと記憶するが、実際にあった事件をベースに、当たり屋の家族を描いた1969年の夏公開の大島渚監督作品、『少年』を見たのは、数寄屋橋交差点近くの日劇文化である。
映画館の暗闇から外に出たときに感じる違和感はいつものことなのだが、当たり屋で生計を立てる一家の過酷なリアルと、高度経済成長期にあった銀座の、何かまぶしさを感じるような風景の激しいコントラストは、19歳の私にとってかなりの衝撃だった。
卒業から数年が経った頃、従姉から旅に誘われた。ヨーロッパ各地の温泉、保養施設の視察を目的とした旅である。
ドイツのヴィスバーデンやバーデン・バーデン、オーストリアのバーデン・バイ・ウイーン、スイスのバーデンに、フランスのエヴィアン・レ・バンを訪ね、旅の終りには、おまけのようにイタリアの史跡めぐりがついていた。
各地の比較的大きな旅館の経営者たちが参加。行く先々で私にはいささか贅沢な五つ星のホテルが用意されていた。
東京国際空港(後に、成田国際空港と改名)が開港したのは1978年の5月。私たちはその少し前、羽田空港からアンカレッジを経由してフランクフルト空港に降り立った。(1989年の東西の冷戦終結まで、当時のソヴィエト連邦政府による領空制限でシベリア・ルートを飛行することができず、各航空会社の飛行機は、アンカレッジで給油したのち北極回りでヨーロッパに向かった。)
フランクフルト空港で我々を出迎えてくれたのは、胸のあたりに一本くすんだオレンジのラインが入った焦げ茶のセーターにコーデュロイのパンツ姿(どうでもいいことは案外よく覚えている)、流暢な日本語を話す金髪のドイツ人の若者だった。通訳兼ガイド役の彼が添乗して、ゆったりした大きなバスでドイツ国内の保養地を訪ねた。
最初に訪れたヴィスバーデンをはじめとして、訪れた保養地はいずれも古い歴史があり、温泉の効用を求めて長期に逗留する富裕層に向けたカジノなど、優雅な社交の場が設けられていた。
保養地巡りの最終目的地は、フランスのエヴィアン・レ・バンである。旅行中宿泊したホテルの中でもとりわけ、レマン湖をはさんでローザンヌの対岸に位置する美しい街の瀟洒な宿、ホテル・ロイヤルが記憶に残る。
1900年代初頭の開業と伝えられるホテルの名は、この地に深く心を寄せた英国王、エドワード7世に因んだものらしい。
湖の畔の広大な敷地に建つ格調高いホテルだったが、建物の外観や内装、調度には、極度の緊張を強いることなく心和ませる空気が感じられて好ましかった。
従姉と2人通された客室の、ベランダからの湖の眺望や、通路の壁に並ぶマルケトリーを施したマホガニーのクローゼットの扉に、思い出した光景があった。
1971年に公開されたルキノ・ヴィスコンティ監督作品『ベニスに死す』のシーンである。
主人公アッシェン・バッハ教授が訪れたリド島のホテルで、恭しく挨拶する支配人が、教授に最上級の部屋を用意していることを告げ、ポーターが大小のトランクを運ぶ。トランクに刻印されたG.v..A.は、教授の名前グスタフ・フォン・アッシェンバッハの頭文字である。
エヴィアンのHôtel Royalに、リド島のHôtel des Bainが重なった。
保養地巡りから50年近い時間が経過した。20代半ばだった私はいつの間にか75歳になっていて、久しぶりに配信で観た『ベニスに死す』に、半世紀の時の流れをあらためて実感させられた。
ファーストシーン。空の群青が、日の出とともにオレンジやモーブに染まる中、一隻の蒸気船が黒い煙を吐きながら姿を現す。
『ベニスに死す』の公開以来、マーラーの交響曲第五番第四楽章アダージェットは、作曲家グスタフ・マーラーの名を一躍有名にし、この楽章も群を抜いた人気曲になったと聞く。
蒸気船の甲板に置かれた籐のデッキチェアはずいぶんくたびれている。背にもたれて本を読む主人公アッシェン・バッハが身に着ける上質も、築き上げた名声も、そんなあれこれに支えられた彼の矜持も、一切通用しないあたりの空気が教授を不安にする。パナマ帽をかぶり、醜悪に化粧した道化の老人が、いんぎんなフランス語で媚を売った。
蒸気船が向かう先、靄の中にだんだんと姿を現す島影が、ベックリンの「死の島」を思わせた。
エヴィアンのホテルの朝食で、焼き立てのクロワッサンをサーブしてくれたブロンドの少年も、映画に登場した14歳の美少年タジオに重ねたはずだったが、もっぱらの興味は,ダーク・ボガードが見事に演じたアッシェン・バッハ教授の不安げな様子であり、ひたすら画面に映し出される彼の姿を追った。
そういえば、最初に訪れたヴィスバーデンのホテル・ナッサウアー・ホフ(Hotel Nassauer Hof)。部屋のテーブルに置かれたウエルカム・フルーツの小ぶりで硬い洋梨を、私たちはハンカチにくるみバッグに忍ばせた。甘い香りを楽しみにしていたはずなのに、その後の記憶がすっかり消えている。従姉に尋ねてみたかったが、彼女はとうに逝ってしまった。
清野恵里子(せいのえりこ)
群馬生まれ。文筆家。伝統芸能や、古美術、工芸、映画など、ジャンルを超えて、好奇心のおもむくまま、雑誌の企画、執筆など続ける。独自の美意識に基づくきものの取り合わせは、多くのきもの好きに支持される。『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』、『時のあわいに きものの情景』など著書多数。
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