気取らず 威張らず|清野恵里子
14|扉が開く
1972年、22歳の大学生が友人たちとともに創刊した情報誌『ぴあ』が、あの時代どんなに凄いイノベーションだったかということを、若者たちに伝える言葉がなかなか見つからない。
創刊の3年後、1975年から2011年の休刊を迎えるまでの36年、ひとりで表紙のイラストを担当した及川正通は、ギネスの世界記録にも登録されているという。
オークションサイトで、何冊かの『ぴあ』を手に入れた。何十年ぶりかで開くかつての愛読誌である。様々な分野を網羅した詳細な情報が、小さな文字でページを埋め尽くす。欄外には「ぴあのはみだし」と称して読者からはがきで寄せられた興味深いコメントや、編集部の耳寄り情報が所狭しと並び、ワイワイと楽しそうな熱気が感じられた。
大学生だった私は、映画や芝居三昧の日々を送っていたはずだが、とりわけ公開の時期をとうに過ぎた作品などの上映情報の入手は簡単ではなく、だいぶ苦労した。
大衆娯楽紙的な要素が強かった、サラリーマン向けの新聞『内外タイムス』は、都内や京浜地区の盛り場の映画情報がかなり充実していて、鈴木清順監督の作品『東京流れ者』と『けんかえれじい』は、浅草の映画館で観た覚えがある。
場末感が漂う暗いホールの床を、観客の食べ残しのポテトチップスやパンなどを狙ってやってくるネズミたちが、足元でカサコソ音を立てた。
そんな時代、待望の情報誌『ぴあ』が誕生すると、思いもよらぬいくつもの扉を開いてくれた。
ニジンスキー熱が続いていたころ、ルドルフ・ヌレイエフというバレエダンサーの存在を知ったのは、『ぴあ』の自主上映のページだった。
新しい『ぴあ』が出ると、毎号隅から隅まで目を通していたので、おそらく「ニジンスキー」という名前を探しているうちに、彼の代表作『薔薇の精』のバレエ映画の情報を見つけたのだろう。『薔薇の精』をルドルフ・ヌレイエフが踊り、少女の役は確かマーゴ・フォンテインだったと記憶している。
ソ連生まれのヌレイエフは、二十代前半ソリストとして参加したキーロフ・バレエ団の海外公演の折、パリで亡命。その後、ロイヤル・バレエ団のプリマ、マーゴ・フォンテインの相手役として鮮烈なデビューを果たす。
ニジンスキーの再来とも言われたソ連生まれのダンサーの、『薔薇の精』が上映される新橋のヤクルト・ホールに出かけた。短い作品だから、たぶん、ほかのバレエ映画も観たはずだが記憶から飛んでいる。
この日、ホールに向かう途中、新橋の駅前の小川軒でチーズケーキを買っていた。
ヤクルトホールは新橋駅に近く、車の往来が激しい第一京浜に面したビルの何階かにあった。
終演後、ヌレイエフの圧倒的な跳躍を見たばかりで、身も心もすっかり軽くなっていた私は、点滅を始めた横断歩道の青信号にちらりと目をやって走り出した。まもなく信号は赤に変わり、中央の分離帯あたりであえなく転倒。通りの向こうで信号を待つ人たちの冷たい視線を浴びながら、散乱したチーズケーキの箱やバッグから飛び出した眼鏡ケースを拾い集め、青信号に変わるのを待った。
今なら、検索エンジンの窓に検索したいワードを入力するだけで、あっという間にいくつもの関連情報がパソコンの画面に現れるが、想像力を駆使し、時間をかける人力検索も存外楽しいものだった。
1978年の夏公開されたケン・ラッセル監督作品『ヴァレンティノ』は、サイレント時代のスター、ルドルフ・ヴァレンティノの実人生を描いたバイオグラフィカル・ムービーである。その中で、ヌレイエフは、タイトルロールのヴァレンティノを演じた。
早逝した美男スターの葬儀に訪れ、泣き崩れる熱烈なファンたちが身に着けるのは、制作当時監督の妻だったシャーリー・ラッセルがスタイリストを担当した1920年代のファッションである。その華やかな様子に目を奪われたものの、なんとも騒々しい。ヌレイエフの少々甲高い声や大仰な芝居も悩ましく、正直なところ映画としては今ひとつという印象を拭えなかった。
けれど、作品の出来不出来にかかわらず、映画というものには心をわしづかみにされてしまう何かに出合う幸運がある。このいささか冗長な作品の中の、数分にも満たないあるシーンだけを観たくて、当時住んでいた町の名画座に幾夜も通った。
イタリア移民のヴァレンティノはニューヨークに渡り、その美貌とダンスの腕を買われ、人気のタクシーダンサーとして生計を立てている。
お目当てのダンサーを指名する着飾ったマダムたちが押し寄せる少し前の、がらんとしたダンスホール。真鍮製の大きなホーンスピーカーからタンゴの名曲「黒い瞳」が流れるフロアに、髪をきれいになでつけた二人のダンサーが登場する。
ひとりはルドルフ・ヴァレンティノ、もうひとりの踊り手は、ヴァーツラフ・ニジンスキーである。(作品の中では、二人の間に交友関係があったとされるが、バイオグラフィーによれば、この時期のニジンスキーは鬱病を発症していたという記述も見られ、真偽のほどはわからない。)
ニジンスキーに扮したのは、ロイヤルバレー団のプリンシパル、アンソニー・ジェームズ・ダウエル。貴種の香りを漂わせるダウエルと、彼より5歳年上で、野性味をのぞかせるヌレイエフ、ふたりが踊るタンゴにすっかり魅了された。
神田の古本屋めぐりの後、ずっしり重い釣果を抱えて立ち寄った「ミロンガ」という喫茶店や、いつも音楽の挿入の巧みさに感心させられる香港の映画監督、ウオン・カーウエイの『ブエノスアイレス』など、タンゴにまつわる思い出は少なくないが、そんなひとつが京都にもあった。
新しい世紀がスタートするまであとほんの少しという頃、女性誌の連載が始まると、京都を訪れる機会が多くなった。撮影や取材を終え、チームから離れて一人で過ごす時間、京都の友人がすすめてくれたいくつかの店に通う格別な愉しみができた。
河原町四条。河原町通りと木屋町通りに挟まれた細い路地の真ん中あたり。夕暮れ時、客を呼び込む白シャツに黒いベスト姿の男性たちの前を、目を伏せて進むと、不思議な世界に手招きされているような、タンゴ喫茶「クンパルシータ」の看板が現れる。
扉を開けると、冷房の効いた店内から、たばことコーヒーの香りが入り混じったような、懐かしい匂いがふっと鼻先をかすめた。
高い背もたれの椅子に張られた天鵞絨の臙脂色のせいか、店内は暗い紅色の光に包まれていた。座るのはいつも決まって入り口の近くだったので、クンパルシータの店内がどれくらい広いのかわからないのだが、数か所にアイアン・ワークの仕切りが置かれていた。
ネットで検索すると「クンパルシータ」はすでに閉店していた。閉店を惜しむ常連客の店に寄せる様々な思いがブログに綴られていて、改めてこの店の沿革など知ることになった。
「クンパルシータ」が開店したのは戦後間もない昭和26年(1951年)。あの天鵞絨を張った木彫の椅子や、アイアンワークの衝立もすべて特注だったらしい。私が通ったのは60年近く営業を続けたこの店の最後の数年の間ということになる。2007年頃に閉店すると、しばらくして女主人が亡くなったと書かれていた。
「クンパルシータ」というと、アイスコーヒーを思い出す。
腰の曲がった小柄な高齢のマダムが現れて、柔らかな言葉で注文を聞くと、さっとカウンターの向こうに消える。
注文のアイスコーヒーが出てくるまでいつも1時間以上、2時間近く待たされてしまうこともあった。「ラ・クンパルシータ」が流れる中。アイスピックで氷の塊を砕く音や、マドラーや氷がクリスタルグラスにあたる心地よい音が聞こえた。
マダムがたっぷり時間をかけたアイスコーヒーが目の前に置かれる。濁りのない濃い琥珀色の珈琲に、大きめに砕いた透明の氷が浮かぶ「クンパルシータ」のアイスコーヒーはとても美味しかった。
そんなゆっくりとした時の流れが、止まってしまう瞬間に何度か遭遇した。
タンゴのレコードもたくさん蒐集していて、レコードを聴かせる時代もあったのだろうと思うが、私が体験した「クンパルシータ」のタンゴ鑑賞は、もっぱらカセットによるものだった。おそらくSPレコードから録音したと思われ、時おり聞こえるノイズが、「クンパルシータ」の味になっていた。
曲が終わり、カセットが止まると、先刻カウンターの向こうに消えた小柄な女性と同一人物とは信じられぬほどの素早い身のこなしで、マダムがカセットプレーヤーめがけて走る。棚に重ねられた別のテープに交換すると、また悠揚迫らぬ様子で視界から消えた。
もしかすると、私の記憶違いかもしれないのだが、店内に流れるのはいつも決まって演奏者の異なる「ラ・クンパルシータ」だった。
喫茶店「クンパルシータ」の住所は、京都市中京区河原町四条上ル二筋目東入紙屋町。
小柄なマダムが淹れてくれたアイスコーヒーと、カセットプレーヤーから流れるノイズ入りのタンゴが懐かしい。
清野恵里子(せいのえりこ)
群馬生まれ。文筆家。伝統芸能や、古美術、工芸、映画など、ジャンルを超えて、好奇心のおもむくまま、雑誌の企画、執筆など続ける。独自の美意識に基づくきものの取り合わせは、多くのきもの好きに支持される。『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』、『時のあわいに きものの情景』など著書多数。
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