気取らず 威張らず|清野恵里子

17|父のこと[前編]


 

 大学を卒業してしばらく実家で過ごした時期がある。ある年の暮れ、父の「親友」が亡くなった。
 お通夜の晩、父とふたりで線香をお供えに伺った時のこと。ご遺体の前に置かれた座布団に座った父の背中が前に大きく傾き、必死で嗚咽をこらえる様子が見えた。やがて、こらえきれずに父が号泣した。いつも冷静で、感情を表に出すことなどない五〇代半ばの父の、私の知らない姿だった。
 友達の多い人ではなかった父が、唯一深く心を通わせたこの親友について多くを知るわけではない。確か山陰、島根あたりの出身であり、大学を繰り上げ卒業したのち、戦地に赴き、復員したと聞いた。
 ふたりとも、それぞれの事情があって戦後移り住んだ町で出会い、大きくはない会社の経営者として、さまざまな苦労もあったと思うが、それでも家族とともに安穏な日々を送った。
 父が過ごした時間と重なることの多い人だった。

 コロナ騒動の頃、しきりと父のことが気になって、シベリア抑留について調べてみようと、厚労省のホームぺージを開いた。
 管轄するのは、厚生労働省 社会・援護局 援護企画課中国残留邦人等支援室。そこに記載されていた、情報開示の申請に必要な書類を揃えて送り、父の抑留に関する記録が送られてくるのを待った。
 しばらくして、厚労省から手元に届いた書類の束には、シベリアで過ごした父の歳月が克明に記録されていた。


 乗船名簿には、昭和23年10月20日、ナホトカ港から出港した大郁丸に乗って舞鶴港に上陸した人の数が1500名とある。その中に父がいた。
 ロシア国立軍事古文書館提供のロシア語の記録のコピーのすべてに日本語訳が添付されていて、生年月日、出生地、国籍、言語、学歴、所属部隊、階級などに加え、身長、体重、身体の特徴、過去の行動、思想傾向、宗教、実家が所有する土地や家屋などにいたるまで、詳細な調査の記録があった。日本語の通訳をしたがえて聞き取りをしたのは戦勝国ソ連の将校だと思われ、裸電球の下で行われたであろう屈辱的な尋問を想像した。

 1919年、新潟県新発田市郊外の村に生まれた父は、1939年4月、明治大学専門部政治経済学科本科に入学、1941年12月に卒業した。20歳で入学する以前、満州で過ごした2年がある。
 第二次世界大戦のさなか、次第に深刻化する兵員不足の打開策として、大学生を対象とした徴兵猶予が停止され、多くの学生が戦場に送られた。
 1941年度は大学の修業年限を3ヶ月短縮、1942年3月卒業予定の学生は1941年12月に卒業した。父は、この繰り上げ卒業の対象となった。

 一方、本郷に生まれた母は、幼いころに両親が離婚。祖母と母、お手伝いさんの3人で神田の神保町に移り住んでいた。
 父も母も同じ1919年、大正8年の生まれである。取り寄せた母の在籍証明書によれば、共立女子専門学校入学が1936年4月、2年後の1938年3月に卒業している。
 書画骨董を好み、小林古径など日本画家たちとの交流もあったという祖父の血か、母の描くチャイナドレスや、髪を結いあげた着物姿の女性はなかなか見事で、小学生のころ、スケッチブックにクレヨンで美しい女性たちを描いてもらっては、同級生たちに自慢した。そんな母の志望校は、美術学校だったというが、祖母の猛反対を受けて断念、共立女子専門学校家庭科に入学した。お茶やお花、小笠原礼法などのほか、日本舞踊や琴など、ずいぶんたくさんの習い事もさせられたようである。ひとり親として娘を育てる祖母の強い矜持を感じる。
 離婚に際し、母を連れて本郷の家を出た祖母であったが、母の親権をめぐって、祖父母の間で長い裁判が続いた。その間、母は祖母の生まれ故郷である群馬県の沼田に住む妹夫婦の元に預けられ、共立に入学するまでの10年ばかりを叔母たちと暮らした。
 祖父母の離婚は、母にとって相当につらいものであったに違いないのだが、母のアルバムに残された1枚の写真には、結城のお対を着た祖父が、おかっぱ頭の母を抱き上げた平和な風景があった。離れて暮らすことになってからも、祖父から贈られたルビーを嵌めた小さな金の指輪や、三越で誂えた御所解の着物や帯は、母にとって、自分がいかに父に愛された娘であったかを確かめる、大切な宝物だったのだろう。

 祖母と母、お手伝いさんという、いささか不用心な女所帯に、誠実で頼りになる用心棒をと考えた祖母が書いた「下宿人求む」の貼り紙を、1939年の春から、神田駿河台の大学に通い始める父が見つけた。
 明治二十年代生まれの祖母。伝え聞く彼女は、とても勝気な性格で自立心旺盛な女性だったらしく、離婚後、迷うことなく自活の道を選んだ。誰よりも早く税金を納めないと気が済まない性格だったと、幾度となく母から聞かされた。
 何事によらず慎重で、簡単に人を信じることなどしそうもなかった祖母が、いかにも真面目で朴訥な青年、つまり父を一目で気に入ってしまったらしい。
 後の展開を考えれば、運命的な出会いのようにも思えるが、父が神保町の家で暮らした時間は、そう長くはなかった。
 下宿人となった1939年の4月から1年も経たぬ翌年の2月、胃癌を患い闘病中だった祖母が逝った。
 亡くなった後のこまごまとしたこと、葬儀の名簿までも書きのこしたという気丈な祖母の享年は49、ずいぶん早すぎる死である。
 医者だった祖父との離婚後、祖母は、俳人でもある医学博士、水原秋櫻子が主宰する神田の水原産婆学校に通った。医療の知識も多少あり、自らの死期についてほぼ自覚していたと思われる祖母が、亡くなる数日前、「清野を」と、父を枕もとに呼んで、葬儀のことなど一切を委ねたと聞く。長い付き合いがあるわけでもない、若干21歳の若者に対する祖母の手放しの信頼ぶりにいささか驚かされる。
 長く続いた裁判の結果、ようやく一人娘と暮らす穏やかな日々が訪れた祖母は、それから数年も経たぬうちに病魔に襲われた。何よりもひとり残される娘のことが、気がかりだったに違いない祖母の無念さを思う。
 祖母は、将来の娘の暮らしを支える貯えを準備し、妹夫婦の養女として託すことをあらかじめ母にも、妹夫婦にも遺言として伝えていた。四九日が過ぎた1940年4月の末、正式な養女となった母は叔母夫婦の元で暮らし始めた。
 父はと言えば、1941年12月、繰上げ卒業の後、帰郷するが、すでに翌年の2月、新発田の歩兵一六連隊への入隊が決まっていた
 東京での学生生活を続けた父と、群馬で暮らし始めた母。ほぼ2年の間、離れて暮らした二人の間に何があったのか、入隊が決まっている父が、なぜ結婚を決断したのか。父からも、母からも聞いていなかったことが悔やまれる。
 無事に帰れる保証などない戦地に赴く父。父は、一時の感情の高ぶりで一歩を踏み出すような人ではなかったと思う。
 このあたりのことについて、確かめようにも、みな鬼籍に入ってしまい、手元に取り寄せた戸籍謄本などを眺めながら、圧倒的に数の足りないジクソーパズルのピースを埋めていくと、ぽっかり空いた隙間に、時折、古風な恋愛小説のワンシーンのような若き日の二人の姿が見え隠れする。

 二人は1942年2月新潟の父の実家で祝言を上げ、ほんのわずかな時を経て、父は入隊した。婚姻届けの日付は2月12日とある。
 2月、雪に覆われた父の郷里を思い浮かべた。

つづく

 

清野恵里子(せいのえりこ)

群馬生まれ。文筆家。伝統芸能や、古美術、工芸、映画など、ジャンルを超えて、好奇心のおもむくまま、雑誌の企画、執筆など続ける。独自の美意識に基づくきものの取り合わせは、多くのきもの好きに支持される。『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』、『時のあわいに きものの情景』など著書多数。


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