気取らず 威張らず|清野恵里子

18|択捉島から……父のこと[2]


 

択捉島地図

 父は、入隊してからのことも、シベリアの捕虜収容所で過ごした時間のことも、私たち家族に多くを語らぬまま逝った。
 厚生労働省から送られてきた父に関する資料は、1941年から1945年、島国日本の周囲で、時には数千キロも離れた太平洋の島々で、何が起こっていたのかをおぼろげにではあるものの、知るきっかけになった。

 北海道東端の根室海峡からカムチャッカ半島南端に向かって、弓なりに並ぶ大小の島々を千島列島と呼ぶ。長い歴史の中で、ロシアと日本の間で領土をめぐる主張が繰り返され、とりわけ、北方領土と呼ばれる南の4島、択捉島、国後島、色丹島、歯舞島は返還されぬまま、戦後80年を超える時間が経過した。
 択捉島は、南千島最大の島であり、太平洋に面した中央部の、南東側に開いた単冠(ひとかっぷ)湾の口幅はおよそ10キロメートル。冬でも流氷が接岸しない天然の良港だとされる。
 豊かな漁場に恵まれたこの島には、太平洋戦争末期、およそ3600の人々の暮らしがあった。
 1941年11月半ばを過ぎたころ、海軍から島民に突然の通達があり、すべての船舶は、島への入出港が許されず、一つしかない島の郵便局の通信業務も停止された。湾内で島民が目にした「見たことのない光景」については、その一切を口外することが固く禁じられた。

択捉島、単冠湾部分


 1937年の盧溝橋事件をきっかけに始まった、日中戦争の終息の兆しがいっこうに見えぬまま、次第に日米開戦の気運が高まる1941年の秋。短期決戦を視野に入れた作戦の準備が秘密裏に進められた。
 鹿児島を中心とした各地で訓練を終え、大分の佐伯湾に集結した日本海軍の航空母艦6隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴)を含む大規模な機動部隊は、11月18日に佐伯港を出発し、太平洋を北上する。択捉島の単冠湾に到着したのが同月22日。行き先を告げられぬままだった乗組員に対し、真珠湾攻撃の作戦の詳細が明らかにされたのは、単冠湾到着後であったという。12月8日の日米開戦に向け、日本軍が周到に準備した奇襲作戦、真珠湾攻撃を開始したのは、ここ択捉島の単冠湾だった。

 開戦の翌年1942年の2月、父は新発田歩兵第一六連隊に入隊した。それから2年余りが経過した1944年5月、北方千島の守備を目的として編成された独立混成第四三旅団独立歩兵第二九五大隊への転属命令を受け、千島列島の択捉島に駐屯。翌年の1945年、終戦の日を迎えるまで同島の守備にあたったことが、厚生労働省から届いた文書の中に記されている。
 「北の要衝」と位置付けられた千島列島最大の島、択捉島について改めて調べているうちに、ほぼ同じ時期、京都歩兵第九連隊において編成された独立歩兵第四一九大隊に配属されて1944年7月京都を出発し、択捉島に向かったI氏がつづった「南千島択捉島守備そして、ソ連強制抑留生活」という手記に出合った。
 I氏は、豊橋第一陸軍予備士官学校を卒業後、北部軍に転属命令を受けている。おそらく、父と年齢も階級もほぼ同じであることから、父の千島についてほとんど知らずに過ごしてきた私にとっては、父の過去を辿るありがたい手がかりとなった。
 戦時には、膨大な数の人々が召集される。とりわけ陸軍において、地上戦に投入される兵士の数は夥しく、大隊は何千という数の兵隊で編成された。その統率はとても職業軍人だけではまかないきれない。そのために必要となる多数の下級将校(少尉や中尉)を短期間で育成する目的で組織された機関が陸軍予備士官学校であり、卒業すると、予備役少尉、予備役中尉として配属された。手記を書いたこの方も、父も、まさにそのような立場で、おそらく数十人、あるいはそれよりも多い人数で構成される小隊、中隊を指揮した。厚労省から届いた例の調査書には、父の階級について、歩兵小隊、小隊長、機関銃小隊、隊長などという様々な呼称の記載があった。
 父や、手記を書いたI氏が所属した部隊は、ともに択捉島、単冠湾から上陸。敵の侵攻を、水際で撃滅するという上層部からの命令を受けて、日夜陣地構築にあたった。終戦の前年、1944年の夏である。
 この時期、太平洋に点在する島々で日本軍が続けた「敵の上陸を水際で撃滅する」という作戦は、物量だけでなくすべてにおいて圧倒的な力の差がある米軍の、海空からの激しい攻撃に抗しがたく、次々と全滅するという厳しい戦況が伝えられる。
 その結果、択捉島の守備隊の作戦は、島の奥深く洞窟陣地を掘り進めるという長期耐久戦法に変更された。

 現在アメリカ合衆国のアラスカ州に属するアリューシャン列島の島々は、アラスカ半島の先からロシア領カムチャッカ半島の間に大きく弧を描く。さらにカムチャッカ半島の北から、千島列島の大小の島々が続く。
 アメリカ合衆国と当時のソビエト連邦の領土の近さに驚かされ、昨今よく耳にする「地政学的」という言葉がリアルに浮かんだ。
アリューシャン列島の最西端に位置する島、アッツ島。近くには、キスカ島がある。
 真珠湾攻撃から半年が経った1942年の6月、日本海軍の第五艦隊と輸送船団がアリューシャン列島に進出。アッツ島とキスカ島に上陸した陸軍の小部隊は、両島を占領したものの、翌年の1943年5月末、アッツ島奪還を目指した米軍と激闘。1万1000人の米軍に対し、アッツ島の守備隊、2650人は、補給も救援もないまま大敗。捕虜となったわずかな兵士を除き、将兵は全滅した。
 一方、アッツ島よりもアメリカ本土に近く、先に米軍の攻撃を受けるだろうとの予測から、キスカ島には、アッツ島の約2倍の数の守備隊が置かれていた。アッツ島の玉砕から2カ月が経った7月の末、キスカ島への米軍の上陸開始を前にして、5000人を超える守備隊は濃霧の中、収容に向かった撤退部隊により奇跡的な撤収を終了する。
 この時期、択捉島周辺を航行する船は、たびたび米国潜水艦の襲撃を受けていたことからも、「北の要衝」択捉島で日本軍が迎え撃つ相手と考えられていたのは米軍のことであり、それ以外の敵の存在は、おそらく想定外のことだったのではないかと思われる。

 択捉島の厳しい気象条件や地形を利用した濃霧奇襲に備え、道路をつくり島の奥深く洞窟陣地を掘り進めるという作戦への変更が告げられると、島内の各部隊から若い下士官50人が招集されて訓練にあたったと、I氏の手記には書かれている。
 手記に登場する様々な場面に、父の気配を探した。各部隊から召集された下士官の中に父もいたのではないか。四一九大隊所属のI氏が、父と同じ二九五大隊所属の少尉と任務にあたる様子も語られていて、もしかしたら、父もI氏と面識があったかも知れぬと勝手に想像を膨らませた。
 古本サイトで、択捉島について書かれた『択捉島地名探策行』という本を見つけた。北海道に生まれ、択捉島の守備にあたったという著者が、島の厳しい自然に触れたくだりがある。海岸線から地を這うように群生するハイマツが、奥に進むに従って、ネマガリダケの異名があるチシマザサと混生。いずれも厳しい自然環境に耐え、逞しく生き抜く植物である。寒い冬が近づけば地面は固く凍る。あたりかまわず頑固に生い茂る枝や根をスコップやツルハシで切断、凍った地面をひたすら掘りつづける作業は過酷である。兵士たちは島内のいたるところに洞窟陣地を掘り、「いっこうに現れぬ敵」を待った。

 伊豆諸島から小笠原諸島、さらにその南に、マリアナ諸島の15の島々が緩やかな弧を描いて続く。16世紀の大航海時代以来、スペインが領土としていた島々のうち、1898年の米西戦争の結果、グアム島はフィリピンと共に戦勝国アメリカに割譲された。その他の14の島々は、1899年にスペインからドイツに売却されてドイツ領となっていたが、ドイツは第一次世界大戦で敗戦。大戦後設立された国際連盟の決定により、太平洋における旧ドイツ領の統治は戦勝国が受任することとなる。その結果、マリアナ諸島の、グアムを除く14の島々の他、カロリン諸島、マーシャル諸島、パラオ諸島などが、正式に日本の委任統治領となった。
 戦わずして日本の領土となった島々では、1920年代から40年代初頭まで、移民政策をはじめとして、飛行場、道路などのインフラ整備も行われ、サトウキビを栽培。製糖会社も設立されていた。
 戦争当時、グアムを除くマリアナ諸島をマリアナ群島と呼んだというが、この群島の遥か北には、硫黄島、小笠原諸島、伊豆諸島がほぼ一直線に並び、さらにその先には首都東京がある。
 マリアナ諸島は、日本軍にとって守備の要であったが、同時に米国にとっては、戦略上最重要拠点の一つだった。何故なら、米軍がマリアナを占領すれば、北海道と東北の一部を除く日本のほぼ全域が大型爆撃機B29の航続距離内に入る。
 マリアナ諸島から日本本土までの距離は、約2400キロ、往復の距離はおよそ5000キロである。ということは、マリアナの島々は、飛び立ったB29が本土を空襲して戻るのに恰好な位置にあったということになる。

太平洋地図、マリアナ諸島から、日本本土に直線が引かれている

 日本軍は、1941年12月8日の真珠湾攻撃、ほぼ時を同じくして行われたイギリス領のマレー半島コタバル急襲につづき、2月にはイギリス領シンガポールを降伏させ、オランダ領のスマトラ島、ボルネオ島、ティモール島を占領、3月にはジャワ島のバタビアを陥落させた。これらの占領地域では日本軍による軍政が敷かれた。
 その一方、開戦直後の12月10日には、西太平洋の米領グアム島を占領。42年1月には、さらに南のビスマルク諸島、ニューブリテン島のラバウルに上陸、3月にはニューギニア島の一部も占領する。日本から、遥か数千キロも離れた太平洋の島々まで進出したことになる。いずれもオーストラリアの委任統治の島々であり、日本軍は、ともに連合国の一員であるアメリカとオーストラリアの連携を断つ目的で、これらの島々を占領した。
 これら緒戦における「華々しい進撃」の結果を、政府、大本営が過信して、甚だしく読み誤った。
 つまり、米英軍はヨーロッパ戦線において、ドイツを相手に全力を注ぎ、日本への報復は1943年以降になるはず。1年半の余裕があると読んだ。
 実際はどうだったかと言えば、開戦時に大きな損害を受けたとは言え、相手は、兵力、技術力、経済力、すべてにおいて日本とは比べようもない国力の差があるアメリカである。1年半と踏んだ日本軍の予測をはるかに超える速さで態勢を立て直し、激しい反撃を開始した。

 ちなみに、1941年の開戦時、日本と比較した米国の国民総生産、粗鋼生産量はともに12倍、自動車保有台数が160倍で、石油は777倍もの差があった。


参考資料
片山杜秀『未完のファシズム』(新潮選書)
加藤陽子『とめられなかった戦争』(NHK出版)
NHK取材班編『ガダルカナル 学ばざる軍隊』(角川文庫)
半藤一利『ソ連が満州に侵攻した日』(文藝春秋社)
大島隆之『真珠湾攻撃隊』(講談社現代新書)
加藤陽子『戦争の日本近現代史』(講談社現代新書)
加藤陽子『それでも日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)
加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(岩波新書)
佐藤和正『玉砕の島』(光人社NF文庫)
半藤一利・加藤陽子・保坂正康『太平洋戦争への道 1931–1941』(NHK出版新書)
鹿能辰雄『北方風土記 択捉島地名探策行』(みやま書房)
富田武『シベリア抑留』(中公新書)
平塚柾緒編『日本列島 空襲の記録(講談社学芸文庫)
山田朗『軍備拡張の近代史』(吉川弘文館)

映像作品
石井裕也監督「開戦前夜」
池谷薫監督「蟻の兵隊」
原一男監督「ゆきゆきて、神軍」

 

清野恵里子(せいのえりこ)

群馬生まれ。文筆家。伝統芸能や、古美術、工芸、映画など、ジャンルを超えて、好奇心のおもむくまま、雑誌の企画、執筆など続ける。独自の美意識に基づくきものの取り合わせは、多くのきもの好きに支持される。『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』、『時のあわいに きものの情景』など著書多数。