気取らず 威張らず|清野恵里子
19|太平洋の島々……父のこと[3]
「最新太平洋地圖」(昭和16年9月発行)よりマリアナ諸島
大本営が予測した1年半どころか、数カ月も経たぬ1942年の6月。ハワイ諸島北西のミッドウェ—島の攻略をめぐって日米が交戦したミッドウェ—海戦において、日本軍は主力空母の赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻を失い、3000人を超えた戦死者の中には、熟練のパイロットも含まれていた。
この海戦の結果、真珠湾攻撃以来の積極的な攻勢を続けられなくなった日本軍に対し、米軍は本格的な攻勢に出る。最初にその大規模な攻撃にさらされたのが、ソロモン諸島のガダルカナル島である。
1942年6月から日本軍2500名余りが占領していたこの島に、2か月後の8月、機動部隊に護られた米軍2万人が上陸。両軍の激戦の間に、投入された陸軍による攻撃もすべて失敗に終わって、制空権、制海権を奪われた日本軍は島の奪回を断念。翌年1943年2月に撤退する。前年8月から半年にわたる消耗戦の末、死者の数は2万を超え、そのうち、1万5000千人は、飢死やマラリアなどの伝染病による病死だったとされる。ガダルカナル島を「餓島」と呼ぶ所以である。大本営は、この撤退を「転進」と発表したが、「転進」という言葉が意味する状況とは程遠い無惨な退却だった。
救援も補給も望めないまま飢えて消耗し、頼みとする正確な地図もなく、ジャングルの中を進んで、わずかな武器を手に突撃。勝てる見込みのない白兵突撃の果ての死である。ガダルカナル島の戦いは、その後、太平洋の島々で繰り返された日本軍の凄惨な戦いの典型となった。
「歩兵操典」(昭和19年発行・昭和45年復刻)
兵ハ我ガ白兵ノ優越ヲ信ジ勇奮身ヲ挺シテ突入シ敵ヲ壓倒殲滅スベシ苟モ指揮官若クハ戦友二後レテ突入スルガゴトキハ深ク戒メザルベカラズ(『歩兵操典』第一篇 第二章 第四節より)
1943年5月末のアリューシャン列島アッツ島における米軍との激闘の結果、捕虜となったわずかな兵士をのぞき、数多くの将兵たちが降伏することなく全滅したという事実を、大本営は、美しい玉がはじけ散る様子を表す「玉砕」という言葉で隠蔽、美化。史上初めて「玉砕」という言葉が使われた。
1944年の春、日本軍は、サイパン島守備隊の大増強を行った。陸海軍の統合軍は、「上陸してくる敵を水際で撃滅」という作戦のもとに、4万4000の大部隊で米軍機動部隊との決戦に臨み、連合艦隊も米国機動部隊との決戦に向け、航空母艦9隻という空前の艦隊を編制した。
米軍がサイパン島を奪取すれば、標的となる日本本土は大規模な空襲の脅威にさらされる。なんとしてでもサイパンを死守しなければならない日本軍と、この拠点を是が非でも奪取したい米軍との間で、壮絶な戦いが続けられた。
ガダルカナル島の戦いで勝利を手にした米軍は、さらにニューギニア、トラック諸島に進撃を続け、1944年6月にはマリアナ諸島に迫る。
戦いは、サイパン島、テニアン島、グアム島の日本軍に対する、米軍艦載機の空襲と艦砲射撃から始まった。
日本軍が「水際撃退作戦」と称して海岸近くに構築した陣地は、米軍の艦砲射撃によりほぼ全滅。6月15日早朝、米軍機動部隊は圧倒的な火力の援護のもと、サイパン島の南西海岸から侵攻。サイパン上陸作戦の開始である。
米軍の上陸が続く6月19日と20日、サイパン島の西では、「マリアナ海戦」が展開された。日本軍は空母9隻を含む73隻と艦載機450機、対する米軍は空母15隻など93隻と艦載機890機。太平洋戦争中、最大の日米機動部隊決戦が行われた結果、日本軍は完敗。日本軍の機動部隊は壊滅状態となった。
大本営は、米軍によるサイパン島の陣地突破の知らせを受けると、直ちに、サイパン島奪回を目指した増援計画の立案を開始していたが、海戦の大敗に計画を中止する。この、大本営による増援計画中止の決定が意味するところは、事実上の「棄民」である。
制海権、制空権のいずれも奪われた結果、食料や物資の補給、兵力の救援も望めず、「孤島」の守備隊は、米軍の猛攻に晒されて消耗を重ね、2週間以上も島内を北へ敗走を続けた。
7月6日、サイパン島最北端の洞窟で司令官、師団長ほか2名、計4名の指揮官が自決。
しかも、自決を前にした司令官たちにより、飢餓に苦しむ兵士たちは翌朝の総攻撃を命じられた。翌7日、早朝3時、兵士たちは「バンザイ突撃」を敢行、3000人の兵士が全滅した。この時、捕虜となることを潔しとしない民間の人々も多数自決を選んだ。サイパンの戦いによる日本人の死者は、軍人およそ4万4000人、民間人はおよそ1万2000人と伝えられる。
1944年7月9日、米国はサイパン島の占領を宣言した。
「戦陣訓」表紙と「戦陣訓述義」
本訓 (その二)第八 名を惜しむ
「恥を知る者は強し。常に郷黨家門の面目を思ひ、愈々奮勵して其期待の期待に答ふべし。
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」
有名な一節「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」に続く、第一〇 清廉潔白 は、こんな風に続く。「清廉潔白は、武人季節の由って立つ所なり。己に克つこと能はずして物欲に捉はるゝ者、爭でか皇國に身命を捧ぐるを得ん。
身を持するに冷嚴なれ。事に處するに公正なれ。行ひて俯仰天地に愧ぢざるべし。」
文体は、高名な文学者、詩人などが校閲に参加したと伝えられる。
米軍は、1943年2月のガダルカナル島の戦いに勝利すると、同年5月のアリューシャン列島アッツ島の奪還に成功。その直後、最後の前線基地をもとめて、マリアナ諸島サイパン、テニアン、グアムの島々の奪取に照準を合わせた。
その結果、1944年7月のサイパン島に続き、8月、グアム島、テニアン島の三島を占領。マリアナ諸島を完全制圧した米軍は、次々と広大な飛行場を建設。日本本土に向けた本格的な空襲の準備が開始される。
米軍による日本本土に対する最初の空襲は、ミッドウエー海戦に先立つ1942年4月18日。真珠湾攻撃から四ヵ月後、太平洋上の空母ホーネットから飛び立ったB25爆撃機一六機によって、東京、川崎、神戸、四日市の軍事施設をターゲットに行われた。しかし、空母から発艦したB25による本土空襲はさまざまな制約が多く、初の空襲は一回で終わる。
「超空の要塞」を意味するスーパーフォートレス(Boeing B-29 Superfortress)、通称B29とは、ボーイング社が開発した大型戦略爆撃機である。
1939年9月の第二次世界大戦開戦時のポーランド侵攻における、ドイツの圧倒的な空軍力や、日中戦争中の1938年から1941年、当時中華民国の首都であった重慶に対し、日本軍によって繰り返し実施された大規模な空襲に、アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・D・ルーズベルトは、米軍の空軍力の強化を決意。莫大な予算を投じて高性能の戦略爆撃機の開発を要請していた。
一九四四年の五月、サイパン占領を目前にして運用が開始されたB29は、翼の幅が43メートル、全長が30メートルもある大型爆撃機である。1万メートルの上空を航行でき、最大9トンの爆弾を投下、爆弾搭載時の航行距離は約5300キロという最新鋭の機種だった。
最初に日本本土への空襲に向けたB29の基地として選ばれたのが、中国四川省の成都である。
B29の航行距離は約5300キロ。成都からの往復の距離を考えると、空襲の範囲は、片道2500キロほどの九州北部一帯に限られた。日本への距離が近い湖南省の長沙や、広西省の桂林に基地を設けることも検討されたが、中国駐屯の日本軍の数は百万を超え、攻撃目標にされる可能性が考えられた。事実、1944年には、長沙、桂林の両都市を日本軍が占領している。
当時、蒋介石政権が置かれていた重慶よりもさらに奥地の成都まで日本軍は進出しないであろうという、選択肢のない中での判断だった。
先ずアメリカからインドまでB29を飛行させるのだが、太平洋ルートは、まだ日本軍に占領された島々が多く、最新鋭の爆撃機を確実に配備するため、南回りの大西洋、インド経由を採用。そこからヒマラヤ山脈を越えて中国奥地の成都に移動した。運用にあたっては、B29本体だけでなく、燃料や爆弾、物資の供給にいたるまで、すべてインドを経由してヒマラヤの高地を越えなければならない。この多くの困難を伴う成都からのおおがかりな対日戦略爆撃には「マッターホーン」という暗号名が付けられた。
1944年6月15日、成都の基地から七五機のB29が目的地の北九州に向かって発進した。B29による初めての日本本土空襲である。北九州には日本最大の製鉄所、八幡製鉄所があり、日本軍の戦力ダウンを目的とした爆撃が計画された。
成都からの空襲は、1944年の6月15日から翌1945年の初頭まで、10回、延べ363機のB29により、八幡製鉄所の他、長崎の三菱造船所、佐世保海軍工廠、大村海軍航空廠など。軍事関連施設を主な標的とした爆撃が繰り返された。
マリアナ諸島を完全に制圧したのち、米軍が急ピッチで完成を進めていた飛行場が、1944年秋から1945年春にかけて相次ぎ完成すると、B29の基地は成都からマリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムの飛行場に徐々に移され、日本本土への空襲が本格化された。
1944年11月24日午前6時15分、サイパン島のイスリー飛行場から、初めてB29の大編隊が東京に向けて出撃した。
清野恵里子(せいのえりこ)
群馬生まれ。文筆家。伝統芸能や、古美術、工芸、映画など、ジャンルを超えて、好奇心のおもむくまま、雑誌の企画、執筆など続ける。独自の美意識に基づくきものの取り合わせは、多くのきもの好きに支持される。『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』、『時のあわいに きものの情景』など著書多数。
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