気取らず 威張らず|清野恵里子

2|妄想の浅草─「押絵と旅する男」考[前編]


 

生まれ育った故郷は、上越の国境に近いかつての城下町である。山々に囲まれたこの土地は、昔からの木材の集散地であり、周辺には蚕を飼う農家も多かった。

田舎町のことだから知れたものだが、木材や繭を商う業者を接待する料亭や、芸者衆を置く見番など、小さな花街のような雰囲気を感じさせる一角もまだ残っていた。

芸事の盛んな土地柄で、老舗の商家の旦那衆は謡の稽古に通い、風呂敷包みを抱えて日本舞踊の稽古場に通う少女たちの姿も、決して珍しいものではなかったように記憶している。

1959年の6月、当時小学三年生だった私は、浅草馬道に住む日本舞踊の師匠のお宅に数日間合宿したことがある。

六代目坂東蓑助、のちの八代目坂東三津五郎の直門だった師匠の襲名披露の会が新橋演舞場で開かれることになっていた。つまりは、師匠にとって一世一代の晴れ舞台を前に、仕上がりに不安のある弟子たちを集めての直前強化合宿、おそらく、そんなところだったのだろう。

三歳の時、母に言われるまま始めた習い事だったが、そのうち、地元のお師匠さんのほかに、月に何日か東京から出稽古に訪れる大きいお師匠さんにも師事するようになっていた。

当時の我が家の経済に、さほど余裕があったとも思われないし、私は飛び抜けて優秀な弟子でもなかった。なのに、なぜか、稽古場に通う子供たちの中から、私一人が師匠に呼ばれて演舞場の舞台に立つことになった。

馬道の師匠には、私より少し年上の三人のお子さんがいた。師匠の稽古は、とりわけ彼ら、息子と娘二人に対して厳しかったが、都会っ子の彼らはとても容量がよく、田舎娘のわが身に比べ、とんでもなく大人に見えた。

肝心の強化合宿について覚えていることは何ひとつないのに、60年を超える時間を経た今も、時折浮かぶ色鮮やかな光景がある。

稽古の合間のわずかな時間、例の三人が私を浅草の町に連れ出した。善男善女で賑わう観音様の境内や、子ども心に何やら不思議に思えた花屋敷も、彼らにとっては遊び慣れた庭のようなものだった。

世の中の何もかもを大きく変えてしまった東京オリンピックまであと数年。日本中が、徐々に加速する右肩上がりの景気の行方に、何の不安も感じていなかった時代のことである。 

やがて、その座をお茶の間のテレビに譲り渡すことになる映画が、まだかろうじて娯楽の中心にあった1950年代の終盤、浅草六区の映画街には人が溢れかえっていた。

映画館の前に群がる大人たちの、むせかえるような熱気に包まれ、せいぜい130センチほどの背丈の私がかき分けるようにしてのぞいた視線の先に、大海原に乗り出した紀伊国屋文左衛門の蜜柑船が、電気の仕掛けで揺れていた。

あの日、目にしたのは、六区の映画街で上映中だった高田浩吉主演の映画「荒海に挑む男一匹 紀の国屋文左衛門」の看板であり、その映画の公開が1959年(昭和34年)の6月だったことをあとから知った。

6月3日で満9歳になったばかりの私が、ほんの数時間過ごした浅草界隈の喧騒と、いささかどぎつい色彩。どこかいかがわしく怪しげな浅草は、いつの間にか「猥雑なるもの」というラベルを貼られ、私の好きなものを隠した記憶の抽斗にそっと収められた。

 

 あなたは、十二階へ御昇りなすったことがおありですか。アア、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体どこの魔法使が建てましたものか、実に途方もない、変てこれんな代物でございましたよ。表面は伊太利の技師のバルトンと申すものが設計したことになっていましたがね。まあ考えて御覧なさい。その頃の浅草公園と云えば、名物が先ず蜘蛛男の見世物、娘剣舞に、玉乗り、源水の独楽廻しに覗きからくりなどで、せいぜい変わった所が、お富士さまの作り物に、メーズと云って、八陣隠れ杉の見世物位でございましたからね。そこへあなた、ニョキニョキと、まあとんでもない高い煉瓦造りの塔が出来ちまったんですから、驚くじゃござんせんか。高さが四十六間と申しますから、半丁の余で、八角型の頂上が、唐人の帽子みたいに、とんがっていて、ちょっと高台に昇りさえすれば、東京中どこからでも、その赤いお化が見られたものです。

(江戸川乱歩「押絵と旅する男」)

十二階と呼ばれ親しまれた浅草凌雲閣は、1890年に浅草公園の一角に建てられた十二階建ての建築物であり、その基本設計を英国人技師ウィリアム・K・バートンが担当した。開業から33年が経った1923年に発生した関東大震災により半壊し、復旧の見込みの立たぬまま、陸軍の工兵隊により爆破解体されて姿を消す。

 記憶の抽斗の奥深くにひっそり隠れていた「浅草」が、むくむくと姿を現し始めたきっかけとなったのは、大学生のころ神田の古本屋で手にした川端康成の『浅草紅團』や、高見順の『如何なる星の下に』であり、さらにぐいと背中を押されたのが、文庫本で30ページにも満たない江戸川乱歩の短編小説「押絵と旅する男」だった。

「押絵と旅する男」は、こんな主人公の述懐から始まる。

 この話が私の夢か私の一時的狂気の幻でなかったならば、あの押絵と旅していた男こそ狂人であったに相違ない。だが、夢が時として、どこかこの世界と喰違った別の世界を、チラリと覗かせてくれる様に、又狂人が、我々の全く感じ得ぬ物事を見たり聞いたりすると同じに、これは私が、不可思議な大気のレンズ仕掛けを通して、一刹那、この世の視野の外にある、別な世界の一隅を、ふと隙見したのであったかも知れない。

狂言回しのような役割を担い一人称で登場する「私」は、魚津の浜で蜃気楼を見た帰り、上野に向かう列車で奇妙な風体の男と乗り合わせる。この男が、小説のタイトル「押絵と旅する男」である。

生まれて初めて蜃気楼を目撃し、膏汗がにじむような恐怖にも近い衝撃を受けた「私」は、その余韻から抜け出られぬまま、夢か現かわからぬ世界に誘われる。

日も落ちて薄暗くなった車内の乗客は、「私」とその男の二人だけ。反対側の隅に座っていた男がやおら立ち上がり、窓に立てかけてあった「二尺に三尺程の扁平な荷物」を、黒繻子の風呂敷に包み始めると、ぬめぬめと艶やかな黒繻子の隙間から、突然、極彩色の「何か」が、「私」の目に飛び込んだ。

先刻から目を離せなくなってしまったこの男の奇妙な風体と、周囲に漂う妖気にすっかり囚われてしまった「私」は、どうにも好奇心を抑えられず、つかつかと歩み寄る。男は、さも待ち構えていたように、長く華奢な指で風呂敷包みを解く。毒々しい色彩の泥絵の具で描かれた、書き割りのような御殿の景色を背に、身の丈一尺ほどの押絵細工の男女が現れた。

片方の、緋縮緬の振袖姿に結綿の娘は、いかにも八百屋お七のこしらえなのだが、娘に寄り添う男は、お七の思い人、寺小姓の吉三郎ではない。愉悦の表情を浮かべるのは、黒天鵞絨で仕立てた古風なスーツに身を包んだ白髪の老人だった。

羽子板で目にするような歌舞伎役者の姿を模した押絵には、立体的な浮世絵のような趣がある。しかし、男が見せた押絵はそんなものとは比べようもないほどに、巧緻を極めた。  

老人の顔に刻まれた細かな皺と残酷なまでの対比を見せる、娘の胸の柔らかなふくらみ、指先の貝殻のような爪までも、細工の精巧さは驚くばかりであり、「私」の目に、押絵の二人は確かに生きていた。身の上話を聞いてくれる相手に、ようやく巡り会えた喜びを隠そうともせぬ男が、押絵にまつわる一部始終を語り始める。

そして小説の一介の読者であるはずの私は、すっかり登場人物の「私」とすり代わり、うす暗い車内で、向かいの席に座った男の話を聞いているかのような奇妙な感覚を味わうことになった。ゾクゾクしながら物語を読み進めるうち、いきなり強い力で腕をつかまれてうす気味悪い奈落に引きずりこまれた。

 

清野恵里子(せいのえりこ)

群馬生まれ。文筆家。伝統芸能や、古美術、工芸、映画など、ジャンルを超えて、好奇心のおもむくまま、雑誌の企画、執筆など続ける。独自の美意識に基づくきものの取り合わせは、多くのきもの好きに支持される。『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』、『時のあわいに きものの情景』など著書多数。