気取らず 威張らず|清野恵里子
3|妄想の浅草─「押絵と旅する男」考[後編]
日本橋の富裕な商家に生まれた「押絵と旅する男」には、異国の文化に憧れる兄がいた。その新しがり屋の兄が、横浜の骨董屋で、外国船の船長の持ち物だったという異様な形のプリズム双眼鏡を手に入れる。兄が二十五歳、弟がまだ二十歳にもならぬ明治28年の春のことである。
江戸城が、第十五代征夷大将軍徳川慶喜から、明治天皇に明け渡されたのが西暦1868年の4月。時代が江戸から明治へと移り、たかだか三十年足らずの歳月しか流れてはいない。
欧米文化のさまざまを凄まじいスピードで吸収して、富国強兵策を推し進める新政府の剛腕ぶりは驚くばかりで、明治28年春と言えば、前年清国を相手に始まった戦争の、思いもよらぬ勝利に人々が酔い痴れていた時期とも重なる。
世の中が、がらりと変わりつつある過渡の時代。兄弟の生家である老舗の呉服商にも、大きな変化が訪れていたはずであるが、日本橋の大通りに、屋号を白く染め抜いた藍の暖簾を掲げる大店では、お仕着せの地味ななりに前掛けを締めた手代たちや、襷をきりりと結んだ奥の女たちが、相も変わらぬ姿で立ち働いていたと想像する。
明治初期の日本橋界隈の賑わいを伝える錦絵には、江戸の風情を残す建物と欧風建築が奇妙に同居し、大通りに敷かれたレールの上を走る二頭立ての馬車鉄道のすぐ脇で、丸髷に結いあげた婦人を乗せた人力車を、鯔背な車夫が意地を見せて引く。山高帽に仕立ての良さそうなスーツをぴしっと決めた紳士や、ウエストラインを際立たせるバッスルスタイルのドレスに身を包んだ婦人たちが行き交うという、何もかもが和洋混淆の体で、どこを叩いてみても文明開化の音がしそうな、当時の様子が描かれた。
1880年(明治13年)に日本初の私鉄として設立されたのが東京馬車鉄道であり、日本橋─上野─浅草─日本橋をつなぐ馬車鉄道の環状線は、翌々年の1882年(明治15年)に竣工している。
福沢諭吉の薫陶を受け、欧米文化を伝えることを信条とした創業者によって、1869年(明治2年)、誕生した「丸善」は、その翌年、日本橋に丸屋善七店(Z.P.Maruya & Co.Ltd.)の名称で本店を構えたというから、件のハイカラ好きの兄にとってはワンダーランドのような存在だったに違いない。
*
念願の遠眼鏡を手にしたころから、兄の様子が一変した。いっこうに食事をとろうともせず、ひとり部屋に閉じこもるばかり。やせ細って目ばかりをぎょろぎょろさせ、誰とも口をきこうともしない兄が、奇妙なことに毎日欠かさず昼過ぎから日暮れ時まで姿を消した。
部屋住みの息子たちの年ごろを考えると、兄弟の父は四十代か、せいぜい五十代の初めといったところ。まだまだ壮健で家業を差配する身であるとはいえ、いずれは家督を譲る大切な惣領息子のあまりの変わりように父は大いに戸惑い、母は思案の末、次男つまり「男」に兄のあとをつけさせることを思いついた。
この兄は、幼いころから体が弱く、乳母日傘で大切に育てられたに違いない。長じても透き通るように白い肌、紅を差したように赤い唇という美青年の姿を思い描いた。
やや細すぎる印象があるものの、すらりとした長身によく映る、特別誂えの黒天鵞絨の上下にピカピカに磨き上げた黒の革靴といういで立ちは、いかにも人目を引きそうである。そんな、道行く人が振りかえりそうな若者の姿には不似合いの、ところどころ剥げたような古ぼけた黒革のケースに双眼鏡を入れ、さも大事そうに肩にかけて家を出た。
馬車鉄道に乗り込んだ兄を見失うまいと、弟は先刻母から渡された小遣いで人力車を雇ってあとを追う。
ようやく辿り着いたのは浅草寺の境内である。兄は、観音堂の裏に並ぶ見世物小屋の人だかりに目をくれようともせず、人混みをかき分けながら十二階の塔に消えた。
十二階すなわち凌雲閣は、浅草公園の一角にあたりを制するように聳え立つ。
瓢箪池を前景にした十二階の威容、とりわけ関東大震災の折、まん中からぽきりと折れて倒壊した無残な姿は、ブリューゲルが描いたバベルの塔を想起させる。創世記、神の領域にまで達する高みを目指し、神の怒りに触れたというバベルの塔の連想は、不吉な予感にもつながった。
当時の周囲の景観を想像すると、かなり異様にも見えたであろうこの洋風建築の内部には、蝸牛の殻のような陰気な石の螺旋階段が続き、分厚い煉瓦の壁の内側には、大日本帝国陸軍の中国大陸における戦果を誇示する夥しい数の戦争画が並ぶ。
新しい時代を迎えるにあたり、明治政府が精力的に推し進めた政策、とりわけ「西洋にならう」という大きなうねりは、絵画の世界にも押し寄せ、驚くことに、壁の絵は泥絵ではなく油彩だった。
思わず目を背け、口にするのも憚られるほどの残虐さが油彩で描かれ、凄惨を極める血みどろの戦場風景が、煉瓦の壁に開けられた小さな窓から差し込むほんの微かな光を受けて、てらてらと光る。
上へ上へと際限なく続くかのように思われる陰気な階段を上り切った先、八角形の塔を欄干がぐるりと囲むだけの見晴らしの回廊に、ひとり双眼鏡を構える兄の姿があった。
あたりのどんよりした霞の中、黒天鵞絨の上下に身を包み一心に遠眼鏡をのぞく兄の姿を、弟は神々しいまでに美しいと思う。
五歳違いの兄は家督を継ぐ身である。父も母も、周囲の誰もが、何かにつけて兄を特別扱いしたはずであるが、次男であるこの男はそういったことに少しも頓着することなく、「美の化身」であるかのようにひたすら兄を思い、そのすべてを受け入れる。
「押絵と旅する男」の作者、江戸川乱歩は、兄を慕う弟の真の心の内を、時折過剰にも思われる執拗さで描写する。
十二階の見晴らしの回廊から、双眼鏡のレンズがわずか一瞬とらえた娘の姿に恋焦がれ、今一度会いたいと、来る日も来る日も通い続けたと打ち明ける兄。そんな思いのたけを弟に打ち明けた直後、遠眼鏡の先に再び娘の姿をとらえた兄は、青白かった頬を紅潮させ、弟の手を引いて観音堂の裏手に連れていく。
松の大木が目印で、娘は青畳の座敷に座っていたと兄は言う。目指した松の木の周囲は、小屋掛けの見世物や、大道芸人たち、そこに集う人々の姿ばかりで、青畳の広間などあろうはずもない。てんでんに娘を探すうちはぐれてしまった弟が戻ってみると、尋常ではない様子で「覗きからくり」の穴に向う兄がいた。
「覗きからくり」とは、江戸末期、ヨーロッパから伝えられた絵画の技法のひとつである遠近法と、当時流行していた凸レンズで絵を見る遊びを合体させた見世物で、組み立て式の屋台の前面に覗き穴をあけ、物語の場面を描いた「タネ板」を変えながら、客に見せていくという簡単な仕掛けである。
からくり屋の夫婦が、ピシャンピシャンと鞭で拍子をとりながら、しわがれ声でこの日の出し物『伊達娘恋緋鹿子 八百屋お七』のくだりを語る。
「かわいい吉三にあわりょかと 娘心の一筋に 一把のわらに火をつけて ぽいと投げたが火事となる 誰知るまいと思えども 恋のかなわぬ腹立ちで 釜屋の武兵衛に訴人され まもなくお七は召し取られ 上野の白州に引き出され 一段高いお奉行さん
そちは十四であろうがな わたしゃ十五で丙午 十四と云えば助かるに 十五というたひと言で 百日百夜は牢住まい、、、」
会いたさを募らせたあの娘が覗き穴の向こうにいるという兄の言葉に、弟がのぞいてみると、レンズの向こうに、吉祥寺書院の青畳の間で、思い人の吉三にしなだれかかるお七の、しどけない姿があった。
要するに、十二階のてっぺんから舶来の遠眼鏡が一瞬とらえた青畳に座る美しい女とは、覗きからくりの屋台の上部に開けた明り取りの窓から見えた、押絵細工のお七だった。
「押絵と旅する男」には、物語を成立させるための作者のたくらみが随所に用意されている。
*
物語の最初、魚津の蜃気楼を見た帰り、黄昏時の汽車に乗り込んだ一人称の狂言回し「私」は、「不思議な大気のレンズ仕掛けを通して、一刹那、この世の視野の外にある、別の世界の一隅を、ふと隙見したのであったかも知れない」と述懐する。
ついさっきまで見えていた夕暮れ時の日本海の景色が真っ暗な闇に消えて、すべての窓が、車内の一部始終を写す鏡に変わると、隔絶された空間でたったひとり乗り合わせた、奇妙な風体の乗客から語られる言葉のひとつひとつが、「別な世界」のリアリティに変換された。
女に懸想したことなど断じてなかった内気な兄が、食べるものも喉を通らず身がやつれるほどに恋い焦がれた娘が、覗きからくりの八百屋お七だったという驚愕の展開である。
生家は日本橋に店を構える老舗の呉服商。幼いころから病弱で、生死をさまようような大病をいくどか患った跡取り息子を、両親も、おそらく祖父母も目に入れても痛くないほど溺愛し、欲しいもののすべてが与えられたなどと、さらに想像を膨らませてみれば、荒唐無稽な物語の展開に合点が行くことも少なくはない。
隠居の身である祖父は、常から到来ものの菓子を孫のために半紙に包み、相好を崩して膝の上に孫を座らせては、黄表紙の物語など読んで聞かせたという絵も浮かぶ。
世の中の何もかもが大きく変わり始める新しい時代の黎明期。贔屓にしていた歌舞伎役者や、人形浄瑠璃の太夫たちが、生活に困窮して祖父を頼ってやって来たことを想像するのだってそう難しいことではない。
西洋の文化に憧れを抱くハイカラ好きの兄が、とうの昔に置いてきた幼い頃の記憶の底には、そんなさまざまな場面も隠されていたはずである。
そんな兄が、覗きからくりのお七に切ない恋をした。
「仮令(たとい)この娘さんが、拵えものの押絵だと分かっても、私はどうもあきらめきれない。悲しいことだがあきらめきれない。たった一度でいい私もあの吉三の様な、押絵の中の男になって、この娘さんと話がしてみたい」
稀代のイリュージョニスト江戸川乱歩は、偏愛する凹レンズや凸のレンズの魔性の力を味方にした。件のプリズム望遠鏡を逆さにして、兄の姿を弟にのぞかせることで、兄の体を押絵人形のお七と同じ一尺ほどの大きさに縮め、吉三の代わりに娘の傍らに添わせてしまうという魔術を披露した。
八百屋お七の「吉祥寺書院の青畳の間」には、カンテラの光に照らされ、お七を抱きしめて愉悦の表情を浮かべる兄がいた。本望を達した兄の仕合せを目の当たりにして、涙が出るほど嬉しいと思う弟は、おのれの人生のすべてを兄に捧げる覚悟を決める。しかし、弟の覚悟の裏には、同時におのれのすべてを捧げても少しも惜しくはない存在である兄を、誰にも邪魔されることなく自分一人のものにするという弟の異常な兄への執着がそっと、隠された。
作者が「押絵と旅する男」に潜ませたダブルミーニングこそ、この短編小説が読者を強く惹き付ける魅力であると考える。
「アア、飛んだ長話を致しました。併し、あなたは分かって下さいましたでしょうね。外の人の様に、私を気違いだとはおっしゃいませんでしょうね。アア、それで私も話甲斐があったと申すものですよ。どれ、兄さん達もくたびれたでしょう。それに、あなた方を前に置いて、あんな話をしましたので、さぞかし恥ずかしがっておいででしょう。では、今やすませて上げますよ」
と云いながら、押絵の額を、ソッと黒い風呂敷に包むのであった。その刹那、私の気のせいであったのか。押絵の人形達の顔が、少しくずれて、一寸恥かし相に、唇の隅で、私に挨拶の微笑を送った様に見えたのである。老人はそれきり黙り込んでしまった。私も黙っていた。汽車は相も変らず、ゴトンゴトンと鈍い音を立てて、闇の中を走っていた。
男が、心から安堵する様子がつづられ、やがてどことも知れぬ山間の小さな駅に下車すると、まるで、押絵の中の老人そのままの姿で、暗闇に溶け込むように消えていく。
旅の僧に、自らの過去を語り、救済されて成仏するという物語、夢幻能の後シテが橋掛かりから消えてゆく姿を髣髴とさせる、爽快なラストである。
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明治維新の後、新政府の体裁が整えられて明治18年にようやく制定された内閣官制以前に、国政を司る最高府であった太政官から公布された法令が太政官達(だじょうかんたっし)であり、明治6年の太政官達で、公園となる候補地の選定に関する手続きが命じられた。
明治政府の中枢となる人材は次々と欧米諸国に見聞を広め、江戸の「旧弊」を刷新しようと、あらゆる分野の欧米化、西洋の文化を取り入れるべく精力を傾ける。そうした中に、国民の憩いの場「公園」があった。様々な候補地の中に、収公された全国の寺社領、境内があり、真っ先にその対象となった金龍山浅草寺の広大な境内も、浅草公園に姿を変えた。
浅草には、「西洋にならう」という御旗を掲げる新政府が、到底受け入れ難い旧弊と、誠に厄介な「江戸の残滓」にまみれた、敢えて言うならば、この地に堆積した「文化」がある。その「文化」とは、誠に寛容で、昨今声高に叫ばれるダイバーシティを地で行くような風土だったのだと思う。その風土の魅了された作家たちが、我々読者の心を鷲掴みにする世界を描いた。
清野恵里子(せいのえりこ)
群馬生まれ。文筆家。伝統芸能や、古美術、工芸、映画など、ジャンルを超えて、好奇心のおもむくまま、雑誌の企画、執筆など続ける。独自の美意識に基づくきものの取り合わせは、多くのきもの好きに支持される。『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』、『時のあわいに きものの情景』など著書多数。
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