気取らず 威張らず|清野恵里子
7|祖父と祖母、母のこと その1
父母も、父方、母方それぞれの祖父母も、みな鬼籍に入り、今となっては確かめようもないことが、しきりと気になるようになって、戸籍などを取り寄せた。
彼らが生きた明治から大正、昭和、そして現在まで、合わせると150年ほどの歳月の流れがある。その間、大きな戦争があり、幾多の自然災害にも見舞われた。
戸籍謄本の申請に訪れた区役所の窓口で知らされたのは、東京大空襲による書類の焼失。辿ることが困難な過去があるという現実をあらためて思った。
戸籍に記載された祖父のこと、祖母のこと。調べ始めると、驚かされることの連続だったが、記載されたそっけない文章の行間に、勝手な妄想を膨らませていく、存外楽しい時間を過ごした。
司馬遼太郎記念館が発行している機関誌『遼』の編集部から原稿の依頼をいただいたことがある。そのころ続けていた女性誌の連載で、東大寺二月堂の絵馬に触れた数行の中に、お水取りの糊こぼしの椿を描いた須田刻太の名前があったのを、どなたか関係者の方がご覧になったのだろう。
司馬遼太郎の『街道を行く』の扉には、独特な筆致で描かれた須田刻太の風景が添えられている。文章のところどころには、司馬遼太郎と須田刻太のやり取りが、時にはユーモラスな様子で登場する。
三千字ほどのエッセイに、母のこと、母が幼いころに離婚した母方の祖父母のことなど書いた。祖父の郷里が松山だと聞いたことがあり、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の秋山兄弟に祖父を重ねて、思うままに想像を巡らせた。
祖父は山蔭南溟といった。明治4年5月17日、山蔭八郎平とフジの長男として生まれ、本籍地は東京市本郷区龍岡町とあった。その後、春木町や湯島新花町といった住所が記されているが、明治37年発行の本郷区全図によれば、いずれの地も、おそらく湯島天神まで歩いて十分もかからず、東京帝国大学医科もほぼ等距離のところにある。母に聞かされていた祖父は医者だったという話が、にわかに説得力を持った。
漢学者のような「南溟」という名は、江戸から明治にかけて活躍した南画家の雅号にもある。明治28年3月に改名という戸籍の記載から、この年二十四歳になる祖父みずからの意志による改名と思われる。ちなみに南溟の二文字には、「はるか南の大海原」という意味があると知った。
明治31年10月、曾祖父、八郎平の死去により、祖父は27歳で家督を相続している。
書画を能くし、骨董好きで、謡や仕舞、長唄にも親しんだという祖父。若くして家督を譲られ、自由気ままに生きた粋人という人物像が浮かぶ。
祖母、群馬志んは、明治23年1月生まれ、大正7年2月に山蔭南溟と結婚。翌年8年5月に母を出産するが、4年後、大正12年4月、協議離婚が成立している。祖母は、あと少しで四歳の誕生日を迎える私の母、敦子を連れて父の家を出た。
この祖母の性格がよくわかるエピソードを二つ違いの祖母の妹、てるから聞いたことがある。女学生のころ、そろって琴の稽古に通っていた姉妹だが、姉の志んは、習い事になど少しも興味がない。興味がないから稽古にも身が入らなかったのだろう、お師匠さんから褒められるのは、いつも妹ばかりである。祖母は面白くない。帰り道、廂髪に飾った大きな繻子のリボンをつかむと懐に入れ、足早に帰ったという。学校の成績はすこぶる優秀だったようだが、いわゆる理科系のほうが得意で、負けることが大嫌いな、男勝りの人だった。
大正7年に嫁いだ祖母の年は28。適齢期をとうに過ぎている。どのようないきさつがあって、二十歳近く年の離れた祖父のもとに嫁いだのか知る由もない。
戸籍謄本には、祖母との婚姻の前に、祖父には二人の妻がいたことが記載されていた。最初の妻と協議離婚ののち、十年近く連れ添った二度目の妻と死別。この妻との間に生まれた娘が南溟の「長女」であり、祖母は幼い娘と暮らす祖父との結婚を承諾したことになる。
母からは、祖父母の離婚の遠因となったのが、「兄」の死だったと聞いていた。戸籍調べの最初、私の郷里の市役所から取り寄せた謄本には、母、敦子が、山蔭南溟と志んの「次女」と記されていて、不思議に思ったが、つまりは、母の記憶違いで、亡くなったのはこの長女であり、「兄」ではなく「姉」だった。
祖母が嫁いで半年余りのころ、長女は、おそらく7、8歳で亡くなった、と想像する。男親にとって、最初に生まれた子供は特別な存在であると聞く。生さぬ仲の娘の急死は、祖母にとっても辛いことであったはずだが、そのころ祖母、志んは、私の母を懐妊している。長女を失うという、祖父の深い喪失感に、彼が望むようなかたちで寄り添うことは、精神的にも肉体的にも、祖母には無理だったに違いない。
アルバムに残る祖母は凛として美しい人だったが、情よりも理が勝ちそうな表情で唇をかたく結ぶ。
そんな中、祖父は長唄の稽古場で出会った、ある女性に惹かれ、やがてこの人との間に娘をもうけた。母とは一歳違いの腹違いの妹である。
いずれにしても、南溟と志んとのわずか5年の結婚生活は、安穏とした暮らしとは程遠いものだった思われる。
娘とともに本郷の家を出た時の祖母の年は33歳。その後、母の親権をめぐって争っていた何年かの間、母は叔母、てるの婚家に預けられた。
大正14年版『町名早見番地入 東京市全圖」
トップ画像は、産婆学校の記事が掲載された『新家庭』(第四巻第八號、明治42年8月5日発行)
戸籍に記された祖母の転居先は、東京市神田区神保町一丁目四十番地と記される。
離婚して旧姓に戻った群馬志んは、新しい住まいに移り、自立の道を歩み始めた。
祖母が暮らした町内からほんのわずかな距離のところに、明治22年に創立された水原産婆学校があった。創立者は水原産婦人科病院長、水原漸。俳人の水原秋櫻子としても知られた漸の長男、水原豊もまた産科医であり、のちに昭和医学専門学校(現、昭和大学)の初代産婦人科学教授に就任、教鞭を執った。家業の病院を継ぎ、宮内省侍医療御用係として、多くの皇族の出産にも立ち会ったとされる。
新生児の死亡率が現在とは比較にならぬほど高かった時代、専門の知識を習得したスペシャリストの養成は喫緊の課題だった。1890年に官立の産婆学校が誕生する以前、西洋医学を学んだ医師たちが設立した、私立の産婆養成機関の一つが水原産婆学校だった。
昭和2年発行の「水原産婆学校 受験準備助産婦学復習書」の目次には、解剖生理、正規妊娠、正規分娩、正規産褥、異常妊娠、異常分娩、異常産褥、初生児異常などの項目が400ぺージにわたり詳細に説明されている。
祖母がなぜ水原産婆学校で学び、助産院を開業することになったのか、戸籍の記載や伝え聞いたことなどをパズルのようにつなぎ合わせてみれば、当時の志んの暮らしの輪郭が見えてくる。
祖母にしてみれば、容認しがたい状況の中、祖父との間に生じた不和の結果の協議離婚であるが、祖父は、娘を連れて去る妻の自立に対して、援助を惜しまなかったのではないか。
母から繰り返し聞かされた祖父が子煩悩であったということ、親権をめぐる裁判の長さからも、娘への愛情がいかに深かったかを想像することは難しくない。
産婆学校入学は、もちろん祖母自身の強固な意志によるものだろうが、本郷と神田はさほど遠くはなく、もしかしたら祖父の交友関係の中に、産婆教育に携わる医師たちがいたことも考えられる。
絵葉書「神田小川町より駿河台ニコライ堂の遠望」(上)と
「大正十二年九月一日 第東京震災實情 神田小川町ヨリ見タルニコライ堂」
祖母と母が本郷の家を後にした大正12年4月、この年の九月には、関東大震災によって、神田周辺も被害は甚大だった。
とにもかくにも、気丈な祖母は、当時、女性の経済的自立の選択肢が少ない中、西洋医学の基礎を学んで、内務省より免許を取得、神田に助産院を開業した。
清野恵里子(せいのえりこ)
群馬生まれ。文筆家。伝統芸能や、古美術、工芸、映画など、ジャンルを超えて、好奇心のおもむくまま、雑誌の企画、執筆など続ける。独自の美意識に基づくきものの取り合わせは、多くのきもの好きに支持される。『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』、『時のあわいに きものの情景』など著書多数。
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