忘れものあります|米澤 敬

24|ガキとジジイ


 

昔々、家の近所に一人の名物爺さんが住んでいた。天気がよいと家の前に小さな縁台を出して座り、何をするでもなく「ニコニコ」と微笑んでいた。それだけなら、長閑な愛すべき風景だが、この爺さん、子ども好きなのである。そして当の子どもたちにとって彼は、恐怖の対象だった。事情に疎いよその子がうっかり近寄ると、素早く顔を寄せてきて、ほっぺたをベロリと舐めるのだ。別にこの爺さんに限ったわけではないけれど、唾液というのは、けっこう臭い。うっかり手でこすったりすると、さらに臭う。大方のガキどもは、決して爺さんに近づくことはなく、ときおり遠巻きにして「クソジジイ」とか「スケベジジイ」と囃し立てていた。彼はそれでも「ニコニコ」していた。近隣から苦情が持ち込まれるでもなく、官憲が取り締まりに来たこともない。鷹揚な時代だった。おそらく「クソジジイ」は、その幸せな生涯を全うしたのだろう。

時は移り、当方は北海道の大学をかろうじて卒業し、一年以上の間、生業に就くこともなく、就こうとしたこともないままに、絵に描いたような自堕落な生活を送っていた。
昼過ぎに起き出して、友人のやっているオンボロのかたちばかりの喫茶店に行き、トーストと一杯のコーヒーで漫画雑誌や文庫本を読んでいるうちに一日が終わる。さすがに周囲も呆れたようで、たまにバイトを紹介されたりもした。喫茶店の向かいの美容院を経営しているおばさんからは、何度か草むしりを頼まれた(めぐまれた?)こともある。報酬は500円プラス無料での散髪。コインランドリーで時給100円の店番もした。当時は大卒の初任給が10万円くらいだったから、かなり安価な労働力を提供していたことになる。こちらは、100万あったら3年以上は遊んで暮らせるのになどと、いじましい計算をしていた覚えがある。
秋には、大学の実習農場から馬鈴薯を失敬して、ひと月近くポテトカレーばかり食べていたこともある。在学中にもやったことだが、見つかれば即退学だと噂されていた。卒業した後は怖いものなしで、堂々と芋掘りを決行した。もちろん、立派な窃盗である。心から反省してます。
住んでいたのは、札幌の北のはずれの裏道に面した「まこと市場」という木造家屋の二階。一階は、雑貨屋、八百屋、魚屋、惣菜屋などの個人商店が並ぶ、今でいうテナント・フロアだった。要するに屋根付きの小さな場末の集合商店である。
冬になると、裏道とはいえ除雪はされる。ただ、雪は道の両側に積まれたままで、年末までにはちょっとしたスロープになり、よじ登れば裏道から我が居室に直接入れるような状態になった。無用心といえば無用心だが、盗まれて困るものは特にないし、こんな部屋に侵入しようという酔狂な空き巣狙いもいなかっただろう。
正月をすぎた頃、窓枠を叩く音で起こされ、窓の外から大声で呼びかけられた。「おやじ、遊ぼうぜ!」近所の小学生たちだった。おそらく声をかける前に、当方の日常の様子をこっそり偵察して、こいつなら大丈夫だと見当をつけられたのだ。子どもから見れば、二十歳過ぎの男は概ね「おやじ」に違いない。本人が知らないうちに、近所の名物「おやじ」になっていた可能性もある。
こちらも時間は売るほどあったから、彼らの誘いに乗ることにした。思う壺というところだ。それからは毎日のように、ガキどもの声で起こされ、鬼ごっこや雪合戦に付き合わされることになった。実のところは、付き合ってもらったようなものである。それにしても扱いがあまりにも軽かった。「おやじ」呼ばわりは許すとして、当方が無精髭を伸ばしていたこともあって、いつの間にか「ヒゲジジイ」と呼ばれるようになった。

ある日、彼らに小学校の校庭に連れていかれ、鉄棒を前にして「ヒゲジジイ、逆上がりできるか?」と聞かれた。できるはずがないと思っているようだ。完全に舐めきっている。大人気ないとは思いつつも、一発で蹴上がりを決めてやった。小学生たちの目の色が、ちょっと変わった。思い過ごしかもしれないが、尊敬の眼差しさえも感じられた。以降、呼びかけは「ヒゲジジイ」から「ヒゲのおっさん」になった。一応、「さん」付けに昇格したのである。
間もなく、彼らの襲来が途絶えた。蹴上がりはやりすぎだったのだろうか、ほかにもっと面白い「おもちゃ」を見つけたのだろうか、ついにガキどもにも見放されたのだろうかなどと、少々寂しい思いを巡らせもした。何のことはない、北国の長めの冬休みが終わり、彼らがまっとうな「小学生」生活に戻っただけの話だったのである。こちらといえば、いつ終わるともわからない、長い長い冬休みを持て余すことになった。


米澤 敬(よねざわたかし)

群馬県前橋市出身。小学校では新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。