忘れものあります|米澤 敬

25|いろはの顛末


 

本にサインをするという習慣は、日本に限ったことではないけれど、どこか道具の箱書きを思わせる。だから嫌ではないものの、ちょっと苦手だ。めったにないことではあるが、自著にサインを乞われると、かなり照れ臭い。自分の拙い文字でせっかくの本を汚していいのだろうか、とも思う(もっとも本の中身も拙いのではあるが)。逆にいただくのは嬉しいのだが、目の前の誰かにサインをねだるというのは気恥ずかしい。要するに自意識過剰なのである。
これまで面と向かってサインをお願いしたのは、ただの一度。漫画家で時代考証家の杉浦日向子さんだけである。雑誌『ガロ』でその作品に触れ、画力こそさほどではないと感じたが、話の運びや、他の漫画には見られない間合いのとり方に惹かれた。仕事にかこつけて、杉浦さんの最初の単行本『ゑひもせす』を片手に仕事場に押しかけ、サインをしていただいた。

その『ゑひもせす』には「吉良供養」という作品が収録されていたこともあって、杉浦さんとは「忠臣蔵」批判でひとしきり盛り上がった。「吉良供養」は、討入の一夜を吉良家の人々に焦点を当てて綴ったドキュメンタリーである。
多くの歌舞伎ファンには申し訳ないが、かねてより『仮名手本忠臣蔵』のお話が嫌いだった。何より、杉浦さんが書いているように、討入は「義挙」ではなく「まぎれもない惨事」である。松の廊下での「人情」も、どんな結果が待っているかをわかりつつ刀を抜いた浅野内匠頭の短慮が気に入らなかったし、大石内蔵助の「深謀遠慮」も小賢しいと感じていた。井上ひさしの『不忠臣蔵』の連作のように、「義挙」に加われなかった、あるいは加わらなかった連中の方にこそ人としての「ほんとう」があるようにも思う。井上はまた戯曲「イヌの仇討」で、討入は生類憐みの令へのプロテストでもあったとしている。なるほど討入は、庶民の生類憐みの令に対する鬱憤のいくばくかを晴らすことにもなったのだろう。
現代の価値観で過去の事例を断じるのは、見当違いだとは思う。しかし、討入事件については、当時より学者の間でも賛否両論があった。室鳩巣や林鳳岡が賛美派、佐藤直方や荻生徂徠が否定派だ。『葉隠』の山本常朝も否定派で、武士道にもとる行為だと断じた。太宰春台にいたっては、浅野内匠頭を死罪に処したのが幕府なのだから、「義士」たちが怨むべきは、吉良ではなく幕府であるとしている。つまり討ち入るなら江戸城に、ということになる。一方、賛美派の三宅尚斎は、そんな否定派の主張を「目ノ子算用」と揶揄した。「学者の屁理屈」ということだろう。
ならば江戸の町人たちがことごとく賛美派だったかというと、そうでもないようだ。討入に腑に落ちないものを感じていた庶民の気持ちを代表しているのが、鶴屋南北の歌舞伎狂言『東海道四谷怪談』である。『仮名手本忠臣蔵』の外伝であり、もう一つの塩谷家(浅野家)と高家(吉良家)の物語になっている。初演時は「忠臣蔵」と合わせて二日にわたって上演されており、一日目はそれぞれの前半部、二日目は「忠臣蔵」と「四谷怪談」の後半部に続いて、討入の場面で幕を閉じる。こうした演出で、「忠臣蔵」の「義挙」をきわ出せつつも、その嘘臭さも暴いてみせた。というのは思い過ごしだろうか。

忠死でも 吉良の家来の 名は知れず─『誹風柳多留』


米澤 敬(よねざわたかし)

群馬県前橋市出身。小学校では新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。