忘れものあります|米澤 敬

26|ルーツと系図


 

海外からの旅行者がまた増えている。東アジア(とくに中国)からやって来た人々と比べ、日本人の顔は多様だと、あらためて思う。偏見かもしれない。そもそも中国は多民族国家だ。身近なものほどそれぞれの違いを認識しやすく、縁遠いものほど同じように見えてしまうことにもよる印象だろう。言葉を覚える前の幼児は、猿山の猿たちの個性を見分けているともいう。
あるいは、日本人と言われている集団のルーツが、北方、中国各地、朝鮮半島、東南アジア、さらにはポリネシアや西域まで、多くの地域に及んでいることが、実際に日本人の顔のバリエーションを豊富にしている可能性もある。
他人の容姿をあれこれ言うのは、あまりお行儀のよいことではないので、ここでは自分の顔を取り上げることにする。我ながら、自分の顔は少々くどいと思う。小学生時代は、ときおり「あいのこ!」と囃された。いまで言う「いじめ」の類である。そんなときには、うろ覚えの英単語を使って「あいのこって言うな、ハーフと言え」などと言い返していた。面倒臭い奴だと思われたようで、その後はあまり言われなくなった。ただ、くどいという自覚はあるものの、鼻筋が通っているわけでもなく、とりわけて色白であるわけでもない。ロシア人クォーターのある知人は、色白で鼻も高いのだが、幼少期からそんな「いじめ」にあったことはないそうだ。どうも納得がいかない。
母親似ともよく言われたが、父母ともに、異国風の片鱗もない容姿であり、あまり目立たない日本人の顔である。なのにこちらは、海外旅行の際には、飛行機で隣の席に座った日本人やCAに、よく英語で話しかけられ、ロンドンの街角ではアメリカ人観光客(これも先入観によるもので、もしかするとドイツ人かもしれないし、スコットランドあたりからのお上りさんかもしれない。あるいは彼らが日本国籍を持っていた可能性もある)から道を尋ねられた。
国内でも、観光地のタクシーで行き先を告げると「日本語、お上手ですね」と褒められたり、薬局で「胃が痛いんですが」と言って「オー、ストマック・エイク!」と返されたこともある。挙げ句の果てに、とある駅前で待ち合わせをしていて、見知らぬおばさんに片言の日本語で「アナタ、教会ニ、キマセンカ。友達デキルシ、日本語モ、オボエラレマスヨ」と、妙な宗教に勧誘されもした。
話は、ふたたび小学生時代に遡る。ある夏休みに母に連れられて、信州伊那の実家に遊びに行ったときのこと。実家には平澤家(母の旧姓)の家系図があった。母の目算では、これを息子に書き写させて、夏休みの課題として提出させるというものだったらしい。あまりに複雑で漢字ばかりだったので、自分の手でレプリカをつくるのはあっさり放棄した。結局、母が書き写したものが残っている。そのいちばんてっぺんには、清和天皇の名があった。つまり平澤一族は清和源氏の末裔だったのだ。子ども心にも胡散臭かった。信州伊那という土地柄を考えると、むしろ平家落人の末裔と言われた方が釈然とする。「平」澤でもあるし。いずれにしても、江戸時代に流行したケイズヤ(系図屋)の手によるでっち上げの創作物だったのだろう。

筆写版「平澤家系図」

ルーツを辿るなら、祖父の代で4人、曽祖父の代で8人となり、1000年前なら控えめに見積もっても50代、2の50乗人のご先祖様がいることになる。つまり1,125,899,906,842,624人、1000兆人を超える。相当の数の同族婚や交差があったわけだ。自分の先祖に貴族がいようが盗賊がいようが、おかしくない。酒呑童子や太郎坊天狗がいたって、何の不思議もないのである。
まあ、そんなことを言いはじめたら、世界中のすべての人々の系図は、アフリカのホモ・サピエンスの一群に辿り着く。自身の容姿や出自にあれこれ思い悩むのは、アホらしくなってくる。ただ最近、髪の毛が薄くなってきたことをよく指摘されるようになった。父もまたハゲていたのだから、これはまあ、詮方ないことである。


米澤 敬(よねざわたかし)

群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。