忘れものあります|米澤 敬

28|あたまの花見


 

寄席まで足繁く通うほどではないが、落語はよく聞く。ひところは古今亭志ん朝のカセットテープやCDを集めていた。最近はもっぱら、先年物故した柳家小三治だ。「芝浜」や「文七元結」もいいけれど、オススメは何といっても「金明竹」である。YouTubeで年に何度かは笑わせていただいている。

昔はテレビの寄席番組も多かった。ウクレレ漫談の牧伸二が司会をつとめる「テレビ寄席」は、日曜お昼のお愉しみだった。子どもながらに、新旧の芸人たちが提供してくれる芸の品定めをしていた。「55号もいいけど、チックタックも捨てがたいぜ」、「円鏡の落語も意外に面白いね」などと、友人たちと生意気を交わしていたものだ。いまも「笑点」は放映されているが、司会が立川談志から三波伸介に交代したあたりから疎遠になった。
だいぶ長じてから、突然テレビで桂枝雀に出くわした。衝撃的だった。そのときの噺が「あたま山」である。無粋を承知で粗筋を紹介しておく。「ある男が桜んぼの種を飲み込んだら、頭の上に桜の木が生えた。春になると大勢が花見に訪れドンチャン騒ぎをするのがやかましいので、桜の木を根こそぎ抜いてしまう。頭の上にできた穴に水が溜まって池になり、今度は釣り人が押しかけたり屋形船を浮かべたりして、また大騒ぎ。当の男は、ついに世をはかなんで、自分の頭の池に身を投げて死んでしまう」というもの。不条理というか、シュールというか、粗筋だけの印象ではちょっと怖い噺である。それが枝雀の語りによって、抱腹絶倒の一席になっていた。てっきり枝雀自身の創作落語だと思っていたら、原話があった。「花咲爺」にもどこか似てはいるが、こちらは犬→臼→灰→桜と、道具立も桜の役割も違う。どうやら「あたま山」のオリジナルは『徒然草』にあるようだ。「榎木の僧正」の話である。「藤原公世の兄、良覚僧正はへそ曲がりだった。彼の寺には大きな榎の木があったので、近所の人は〈榎木の僧正〉と呼んでいた。僧正は、妙なあだ名をつけられて怒り、榎の木を伐ってしまう。切り株が残ったので今度は〈きりくいの僧正〉とあだ名をつけられた。すると僧正はますます逆上し、切り株を掘り起こした。大きな堀ができたので、以来、僧正は〈堀池の僧正〉と呼ばれた」というもの。
宇井無愁の『落語のみなもと』によれば、この「榎木の僧正」に、『大唐西域記』の「枯れ木のような仙人の肩に落ちた種から大木が生えた話」がブレンドされて、「あたま山」ができあがったという。ずいぶんスケールの大きなバックグラウンドがあったのである。
この「あたま山」ですっかり桂枝雀に魅了され、のちには本人にインタヴューする機会にも恵まれた。編集者の役得である。取材場所に指定された大阪のホテルに現れた桂枝雀は、終始高座そのままの佇まい。インタヴュアーを前にしても、咄家であることをやめようとしない。例の千変万化する表情で、当方を笑わせ続けた。でもその目は時々鋭く光った。こちらの器量をはかっていたのか、場の雰囲気を読みながら話の流れを計算していたのかは、わからなかったが、こちらは笑い転げながら、もしかするとこの人は、もの凄くしんどい生き方をしているんじゃないのかと心配になった。取材後、同行したカメラマンに「面白かったね」と言うと、「でも、怖かったよ」と返された。
枝雀には「緊張と緩和論」がある。落語、あるいは笑いを理詰めで考察したものだ。丸ごと否定する気はないものの、こちらの方はあまり感心できなかった。ベルクソンの『笑い』もそうだったけれど、「笑い」からどんどん離れて、肝心のところがぽっかりと抜け落ちている、という印象。「笑い」について書くことや分析することは、さぞや難しいのだろうなと、無責任に思う。
そもそも芸能の起源は、神事まで遡る。つまり神さまを笑わせること、あるいは神さまとともに笑うことが、その根っこの一つにある。そんなこんなが気になり、柳田國男の『笑の本願』に目を通していたら、気になる一節に突き当たった。戦前戦中、つまり「高笑いの声が甚だ乏しくなった頃」から、急に世間には「たのしい」という古い形容詞が流行しはじめたのだそうだ。「たのしい」という表現が一般化したのは、ごく最近、それもあまり楽しくない時代からだったのである。そういえば近年、盛んに使われる「お笑い」という言葉も、笑えない時代だから定着したのかもしれない。いわゆる「お笑い番組」をはじめ、確かに笑える機会は少なくない。けれど、ともすると脇の下をくすぐられて無理に笑わされているような気分になってくる。「怒る」や「泣く」より、「笑う」はやっぱりずっと難しい。
オチもサゲもトリトメもない、笑えぬ話に仕舞までおつきあいいただき、なんともご退屈様でした。(文中敬称略)


米澤 敬(よねざわたかし)

群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。