忘れものあります|米澤 敬
30|「もう」と「まだ」
あるときナム・ジュン・パイクが、インタヴューでこんなことを言っていた。「あのね、人間は生まれて子どもの頃まではひじょうに時間がゆっくり流れて、年をとるにつれてだんだん速くなる。これは、このカセット・テープにおいても起こっている。最初、テープはゆっくり回っている。テープの巻きが半ばまでくるとやや速くなって、終わりの方になるとひじょうに速くなる。当然マシンの方は同じ速度で回転しているんだけれど、そうは見えなくなるわけね」。
幼児期の時間が長く感じられるのは、初めての体験がいっぱい詰まっているせいだともいう。なるほどそうかもしれないが、それだけではないとも思う。まあ、確かに我が身を振り返っても、子ども時代は、出会いと発見の連続だった。それはおおむね、毎日の遊びとともにあった。というか、当時は遊びが日常だったのである。
群馬県の地方都市に生まれ育った自分の場合、遊びの主な舞台は、近所を流れる利根川の河原だ。トノサマバッタにも、ヤマカガシにも、タイコウチにも、ツチガエルにも、そこで初めて出会い、ときには家に持ち帰り、飼育を試みたりもした。鳥籠に入れておいたシマヘビやコウモリは、翌朝には籠抜けして姿を消していた。コウモリの方は、夕方になると我が家の食卓の上をバタバタと飛び回るようになった。
東京には自然が少ないという。そんなことはない。子どもの頃に一度は見たいと思っていたヤモリが普通にいる。初めて仕事場の窓ガラスに貼りついているヤモリを見たときには、狂喜したものだ。杉並に暮らすようになってからは、タヌキや小さなアオダイショウに、何度も遭遇している。
10年ほど前から、あることをきっかけに、都内や近郊の山を歩くようになった。登山ではない。トレッキングとも言えまい。里山をうろうろと歩くだけである。そこでも、野生のイノシシやアナグマと初めての逢瀬をとげることができた。
この春の連休の一日、武蔵五日市の秋川の流れに沿って、広徳寺の裏山に向かった。快晴の夏日であり、河原ではけっこうな人数が川遊びに興じていた。そろそろ道が川から離れるあたりで、十人ほどの小学生が、高さ3メートルほどの岩の上から、着の身着のままで次々に川へ飛び込んでいた。飛び込みといっても、頭からではない。立ち姿勢で足から水に入るので、それほど危険ではなさそうだ。そんな光景を横目に見つつ、広徳寺の脇道から里山に入ったが、途中、かなり新しいツキノワグマの糞に出くわしたので、そそくさと引き返すことにした。
帰路、さっきの飛び込み岩の上で、小学校高学年と思われる一人の少年が立ちすくんでいた。往路で通り過ぎてから小一時間ほどは経っていた。川の中からは、彼の仲間らしい子どもたちが、盛んに声をかけている。「だいじょうぶ、こわくない」、「いけるぞ、ほら」……誰一人、その飛び込みを逡巡している少年をなじったり、非難したりはしない。少年は意を決したように、中腰の姿勢になり、少しだけ川面に向かって身を乗り出す。当方も含め皆が固唾を呑んでいた。と、少年のからだから力が抜け、また棒立ちになる。当人のため息が聞こえてくるようだ。そんなことが何度も繰り返された。10分ほども経過しただろうか、何がきっかけかも、本人がどう気持ちを片づけたのかも、わからないが、突然、少年が川に飛び込んだ。仲間たちが喝采した。こちらも思わずガッツポーズとっていた。
きっとその少年にとっては、一生忘れられない出来事になるだろうな、などとつい考えてしまう。こちらがテープの終わりの方にいるからの感慨であって、当人にとっては、数あるエピソードの一つでしかなく、案外簡単に記憶の底に沈んでしまう体験なのかもしれない。
もう6月である。今年も半分が終わろうとしている。でも、あの少年たちにとってはきっと、「まだ6月だ。夏休みには1か月もある」なのだろう。
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
< 29|百人の「さぶ」 を読む