忘れものあります|米澤 敬
31|聖なる酔っ払いの伝説
「こいつはバカだ」と思い、面と向かって「お前はバカだ」となじったりすることがあっても、どこかで頭が上がらないという相手がいる。
以前にも少し書いたが、子どもの頃は乗りもの酔いがひどかった。長じるにしたがってだいぶ改善し、電車や飛行機では本を読んだりしていても、大抵はなんともない。ただクルマでは、活字は禁物である。本もケイタイも、そこに視線を向けると気分が怪しくなり、生あくびが出る。文字から目をそらせば、すぐに気分は回復はするものの、しばらくは頭も働かず、口数も減る。きっと周囲からは不機嫌な奴とか思われているのだろう。
船は最悪である(最近は瀬戸内などの内海の体験しかないので、酔うほどのことはないのだが)。中学生時代、三陸海岸の遊覧船に乗り、5分も経たないうちに酔っ払って、その日の夕方、宿に着くまで半病人状態だったという経験がある。いくつかあった将来の職業候補の一つ、海洋生物学者はあっさり断念した。
なのに、うっかり大学受験では札幌の学校を選んでしまったのである。先生からは、受験シーズンの札幌は路面が凍結しているので、くれぐれも気をつけるようアドバイスされた。受験に行ってすべったら、シャレにならないというわけだ。そんな言葉も馬鹿馬鹿しいと聞き流し、「受験旅行」のあれこれは高校が手配してくれた旅行代理店に任せきりにしていたのだが、出発前日、あらためて日程表を確認して、自身の思慮の足りなさに呆然とした。札幌にたどり着くには、青函連絡船に乗らなければならないのである。連絡船のことを失念していたわけではない。漠然と1時間そこそこの乗船時間だとたかをくくっていたのだ。それがなんと4時間である。案の定、津軽海峡はいつ終わるとも知れない苦行のローリングだった。それでも、なんとか函館から札幌までの車中で酔いを醒ますことができた。札幌駅ホームの冷たい風が心地よい。意気揚々と駅舎を一歩出た途端、アイスバーンに足を取られ、絵に描いたようにすべって尻もちを着いた。忠告は、ちゃんと聞いておくものである。
その後、同地で学生生活を送るうちに、二人の農家出身の友人ができた。一人は農学部に籍を置いていた。なのに「農業は男の仕事じゃない。一次産業なら漁師か猟師だ」などと問題の多い発言を繰り返す男。親の手前、農学部に入ったものの、農業経済学を専攻し、将来は国税庁の査察官、つまり「マルサの男」になって、日頃偉そうにしている農協に査察に入るのだ、とこれまた問題の多い夢を語っていた。それまでの彼の人生に何があったのか興味深いところだが、何も教えてくれなかった。
もう一人は山形の農家の次男。こちらは広く大きな海に憧れるあまり、水産学部の学生になっていた。志望動機はシンプルで微笑ましいが、ちょっと不可解である。この男、めっぽう船に弱いのだ。水産学部には船舶実習というものがあって、ハワイ沖まで往復する間、一度も下船できない。当人はなんとかなると自信満々の様子だったが、後で洩れ聞いたところでは、出航と同時に激しく船酔いして、満足に食事も摂れないまま、ずっとベッドに臥せっていたという。何の実習だか、わけがわからない。
それで少しは懲りたかと思いきや、この男、水産業の業界新聞社に就職し、記者になってしまった。当然、取材もする。漁船に同乗して、インタビューも写真撮影も一人でこなしているという。船酔いは治ったのかと問いただすと、ますますひどいという。船上で嘔吐を繰り返しながら取材しているらしい。迷惑な話である。それでも漁師たちからは面白がられていたようだ。さすがにもう引退したが、北海道の水産業をテーマにした著作も数点上梓している。
本当にバカな奴だと、つくづく思う。しかし、あっさり海洋生物学の道を断念した身としては、やっぱりどこかで頭が上がらないのである。
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
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