忘れものあります|米澤 敬

32|ファイトかプレーか


 

パリで、大掛かりな運動会をやっているけれど、ほとんど関心を持てない。60年前の東京では夢中になってテレビ中継を見ていた。重量挙げの三宅、体操の小野、柔道のヘーシング、マラソンのアベベと円谷、そしてバレーボールの東洋の魔女たちの姿は、いまでも憶えている。このあいだの東京大会はニュースも中継も無視した。日本がメダルをたくさん取ったそうだが、誰がどんな種目で金メダルを取ったのか、何も知らない。
運動会といえば、やっぱり小学校の校庭で行われるやつが、本来の姿だと思う。駆けっこも得意だったし、フォークダンスでは、好きな女子と手をつなぐことができる。その順番がうまく回ってくるかと、けっこうドキドキしたものだ。本来の姿とは書いたものの、この手の運動会、考えてみるとちょっと妙である。綱引きは1920年まではオリンピックの正式種目だったので、ひとまず置くとしても、玉ころがしやパン食い競争、器械体操や二人三脚、そして玉入れもフォークダンスも、あまりスポーツらしくない。運動会はスポーツ大会というより、子どもを主役にした村祭りのようだ。1880年代あたりから全国の小中学校で行われるようになったらしい。当時の記録では、「小高き所に宴を張り歌ひつつ舞いつつ楽しむ」とあり、「村祭りと運動会は部落をあげて生業を休み、一家をあげて校庭に集合して、一日の喜びをともにする」ものだとされている。明治維新後の村落共同体の再編にともない、人工的につくり出された祭礼行事だったのかもしれない。

小学校の運動会あたりまではよかったのだが、中学に進学するあたりから、競技としての運動が嫌いになっていった。
中学進学を前にした男子小学生の最大の関心事は、どの運動部に入部するかということにあった。野球部と陸上部に人気が集中していた。まだサッカーはさほど話題にもならなかったし、そもそも進学先の前橋第一中学校にはサッカー部はなかった。子どもの頃からちょっと臍曲がりだったので、卓球部を選んだ。家に子ども用の小さな卓球台があったこと、当時は長谷川信彦というスタープレーヤーがいたことが、卓球を選んだ漠然とした理由である。周囲からは、なんでピンポンなんだと訝しがられた。ピンポンには牧歌的なイメージがあり、それこそスポーツらしくはなかったのである。バカを言うな、卓球はけっこうハードで運動神経を要するスポーツなんだぞ、と反論していた。そのあたりまでは、よかったのである。実際に入部してみると、そこは予想を大幅に越えたハードで「理不尽」な運動部だった。初日から、兎跳びや校舎の1階から屋上までの駆け足昇降を何度も強いられ、ラケットやボールには触れさせてもらえない。「蝉」や「椅子」のように、ただの「しごき」のためとしか思えないトレーニングも日課だった。ちなみに「蝉」は黒板の縁に両手で捕まり、かがんだ姿勢で壁のわずかな段差に爪先を固定させるもの、「椅子」は中腰で爪先立ちになり、両手を水平に前方に出すもの。そのまま何十分もじっとしていなくてはならない。挙げ句の果てに、反省会と称して野球のバットを並べた上に正座させられた。後で聞いたところ、その卓球部は中学で一、二を争う「しごき」のクラブだったのである。先輩たちは、市内ではトップクラスの実力校であることを自慢にしていた。勝つためにしごく、まるで旧日本軍の新兵いじめである。分別のある同期は、すぐに辞めていった(もっとも辞めるには、また相当のしごきを受けなければならない)。卓球そのものにはさほどの執着もないくせに、分別のない身としては、辞めてたまるかと意地になってしまった。残った同期とは、自分たちが上級生になったら、こういうしごきは絶対に止める、と誓い合ったものである。
なんとか1年余をやり過ごし、しごきの上級生が退部する時期が来た。いよいよというとき、体育祭の走り高跳びの選手に選ばれ、練習中にふざけて物干し竿で棒高跳びの真似事をして、竹竿と一緒に左腕を骨折してしまった。骨折が治った頃、今度は喧嘩で相手を殴ってしまった。幸い相手にはさほどのダメージはなかったものの、こちらの右手の指の骨にヒビが入った。やっぱり喧嘩はよくない。暴力などはもってのほかである。で、卓球どころではなくなったのではあるが、同期の仲間たちは、しごきを止めさせてくれた。以降、我が卓球部は市内トップクラスを脱して、県大会で優勝を狙えるまでに成長した。「蝉」や「椅子」や「兔」には、なんの意味も効果もなかったのである。

こういう経緯があったので、競技としての運動には、どこかで距離を置くようになった。そうはいっても、ワールドカップでは、サッカーやラグビーのにわかファンになったりもするのだから、自分のスポーツ嫌いもあてにならない。
2006年にボスニア・ヘルツェゴビナ出身のイビチャ・オシムが、サッカー日本代表の監督に就任した。彼は「サッカーに戦争のメタファーを持ち込むな」、そして選手たちには「エレガントであれ」と言ったそうである。思えばスポーツもビジネスも、アートの世界も戦争のメタファーに溢れている。オリンピックなどは、ちょっとした代理戦争の様相を呈している。明治時代に始まった「運動会」も、実はその本来の目的は、軍事教練の予行演習だった。
オシムは言った。「チームは軍隊ではない」、「スポーツは戦うものではなく、プレーするものだ」。


米澤 敬(よねざわたかし)

群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。