忘れものあります|米澤 敬

33|うらやましの石


 

決めゼリフというのも変だが、幽霊といえば「うらめしや」である。この言葉、どうもいまひとつピンとこなかった。多くの子どもがそうするように「裏飯屋」などと当て字をしたこともあって、「うらめしや」と言われても、さほど怖くはなかった。少し大きくなると、今度は「うらめしや」と「うらやまし」の区別がつかない。前者が「恨」や「怨」であるのに対し、後者は「羨」であることを納得するのは、さらに大きくなってからのこと。「うら」はどうやら「心」の古い大和言葉であるらしい。「羨まし」は「妬まし」に通じるし、「うらめしや」と「うらやまし」はさほど距離のある言葉ではなさそうだ。昨今のSNSでも「うらやまし」はすぐに「うらめしや」に転化する。

物欲も嫉妬心も充分に持ち合わせてはいるが、これまで、何か、あるいは誰かを執拗に「うらやましい」と思い続けたことはあまりない。もちろんギターの名手や絵の上手、魅力的な文章の書き手をうらやむことはあっても、その気持ちは長続きしない。ギターも絵も文章も、それに没頭することで余計な気分はどこかにいってしまう。そうでなくても、すぐに飽きる。

小学生の頃、鉄道模型、それもHOゲージ(軌間16.5mm)が欲しくてたまらなかった。そのリアルで小さな造形に惹かれたのである。頑張って小遣いを貯めても、半年か1年に一度、しかも貨物車を1台手に入れるのがせいぜいだった。3、4台ほど集めたが、いつの間にか熱は冷めた。部屋いっぱいにレールをレイアウトして、何台もの貨車を引く機関車を走らせることのできる状況は、うらやましくはあっても、夢のまた夢であることを思い知ったのである。何よりも、物欲や嫉妬心の持久力がないのだ。
ちなみにジョン・レノンがバンドの成功によって大金を手にしたとき、最初にやったのは、模型のレーシング・カーを何台も手に入れて屋根裏部屋のサーキットで存分に走らせたことと、子どもの頃から夢に見ていたオレンジ・ケーキを腹いっぱい食べたことだった。もちろん、どちらもすぐに飽きたらしい。それはそうだろう。

個人的には、いまでも一つだけうらやましいと思い続けていることがある。夏休みに信州の母の実家に帰省したときのことだ。当時はまだ田舎では有線(有線放送電話)が活躍し、人々は苗字ではなく「屋号」で呼ばれていた。五右衛門風呂に驚き、小さなサンショウウオやサワガニやノウサギとの自然の中での出会いに感激したものである。ある日、近くの川で水浴びをした。そこで板屋(屋号である。うちは油屋だった)の少年が河原で、何を思ったのか、おもむろに握りこぶしほどの石を割ってみせた。ぱっくり真っ二つに割れた石の中には、水晶の微結晶とともに直径数ミリほどの石榴石(ガーネット)がきらめいていた。その濃紫の24面体結晶が何ともうらやましく、自分も真似をして手当たり次第に石を割ってみたが、そんな僥倖に恵まれることもなく、ただただその板屋の少年の体験に嫉妬していた。

いまでは、石榴石くらいは鉱物ショップでもっと大きくて美しいものがいくらでも手に入るし、実際に買ったこともあるが、かつての「うらやまし」が解消されることはなかった。もしもいま、どこかの河原で、かの少年と同じように石を割って、その中に石榴石の結晶を見つけたとしても、かつての「うらやまし」は残り続けるのだろう。あの河原での体験は、一回限りのものであり、いつまでも宙ぶらりんのままなのだと思う。それでもいつかどこかで、見えない「石」を割って格別の何かと出会うことができるのかもしれない。いやいや、きっとこれまでたくさんの「石」を見逃してきたにちがいない。


米澤 敬(よねざわたかし)

群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。