忘れものあります|米澤 敬
42|金魚とドクダミ
子どもの頃にお腹をこわしたとき、母がゲンノショウコを煎じてくれた。それが効いたのかどうかは定かではないが、間もなく消化器は復調した。ゲンノショウコという薬草とその薬効については聞いたことがあり、母が近所の草むらで採ってきたというそれを見て、なるほどこれがゲンノショウコというものかと思った。後に、念のため『植物図鑑』で確認してみると、葉っぱのかたちは似ていなくもないものの、これがまったくの別物。薬草ではなかったのかもしれないが、幸い毒草でもなかったようだ。葛の類だったのかもしれない。
当時、我が家の池では、大きな金魚(和金や蘭鋳や和蘭獅子頭)が何匹も泳いでいた。あるとき、その一匹が死んだ。水面に浮かんでいた大きな和金は、いつの間にか台所のまな板の上にいた。母は料理する気満々だったのである。金魚の煮付けや塩焼きは嫌だ。そのときは半泣きになって駄々をこね、金魚が病死した可能性を指摘して、母の暴挙をなんとか阻止することができた。
母は満州からの引き上げ者であり、想像を絶する苛烈な体験を強いられた人なので、喰えるものは喰うというその気持ちはわからなくもない。大陸から舞鶴に向かう船中で、支給された乾パンを割ると蛆虫がうようよしていた、などという話を聞かされたこともある。あらためて考えてみれば、金魚は鮒の一品種なのだから喰えないこともないのだろうが、戦後に健やかに育つことができた一人の子どもとしては、やっぱり忌避感は強いのである。
我が家の食卓には、たまに予想外、というか得体の知れないものが上った。薪で炊いていた風呂の煙突に飛び込んで落命した、不運な雀の照り焼きも食べたことがある。天ぷらにも正体がわからない植物が加わる。ドクダミなどは、いつの間にか定番になっていた。ドクダミは、ドクダミ茶というものもあるし、長じてからはじめて味わったシャンツァイよりは、よほど食べやすかった。天ぷらにすると、その匂いもあまり気にならないのである。
ドクダミは、天ぷらはともかく、野山を歩いているとしばしばその佇まいに惹かれる。蕾もいいし、葉の色が褐色に変わりはじめた頃(病葉も)もいい。蕾の時期のドクダミは、もしかするといちばん好きな花の佇まいかもしれない。本草図鑑のようなもの以外ではあまり描かれることはないが、竹久夢二になかなか魅力的な小品がある。自分で花を生ける習慣はないし、茶席ではその匂いのせいで論外なのかもしれないけれど、生けるとするならまずドクダミを選ぶだろう。
ドクダミ以外の好みの花を挙げるなら、チゴユリやシュンラン、カラスノエンドウやホトトギスといったあたりだ。シャクヤクやオオヤマレンゲも好みではあるけれど、自分の嗜好はどうやら小さくて淡いものにありそうだ。花屋で売られている園芸品種に気を引かれることはまずない。ただしそういう自分の好みに安住していると、肝心なことを見逃すことになるのは、わかっているつもりである。
「自分の才能をころす、という勘どころを悟るまでは、知らないことを語るな」という戒めの言葉もある。まだその真意にまで手が届きかねてはいるが、才能を好みと言い換えるなら、ドクダミあたりで立ち往生していると、感覚のどこかに蓋をすることにもなるのだろう。
だけどもやっぱり、金魚の塩焼きは勘弁して欲しい。
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
< 41|普通が見えない を読む