忘れものあります|米澤 敬
43|愛だの恋だの
このところ「愛」に対して「恋」の分が悪い。恋が一時の気の迷いであるのに対し、愛は不変、かつ普遍的であるそうである。
「あい」と「こい」は、音が似ているのでしばしば並べて語られるが、これには少々無理があるというもの。「あい」は「愛」の音読であり、「こい」は「恋」の訓読。つまり昔の日本には「あい」という言葉はなかったのだ。
「恋(こひ)」は「恋ふ」であり、目の前にないものを思い慕うこと。『万葉集』では「孤悲」と綴られる。甲類と乙類の違い(発音の差)はあるものの「乞ふ」にも近しい。こちらは「雨乞」や「乞食」などと使われる。強く思い、願い欲することである。
一方、漢字の「愛」は後代では「愛(め)でる」と訓じられるようにもなったが、もともとは「愛し」と綴って「かなし」と読ませていた。「かなし」は「どうにもならない切ない感情」だから、どこかで万葉の「孤悲」にもつながっている。「愛でる」も「恋ふ」もその手前には「好く」があるので、「愛」と「恋」はそんなに遠く離れた言葉ではないのかもしれない。「すく、すき」からは「数奇」という感覚、あるいは趣向が生まれたのであはるけれど、ここでは深入りしないことにする。
そもそも「愛」を「あい」と読ませる慣習は、仏教絡みで流布したようにも思える。この「愛」、西洋の「Love & Peace」の「Love」とは、かなりニュアンスが異なる。サンスクリット経典を漢訳した際に、「慈悲」も「性愛」も「渇き」もひとくくりにして「愛」の漢字が当てられたともいう。だからというわけではないのかもしれないが、「愛染明王」は憤怒相であるし、「愛」は人生の苦悩の根源とされる「十二因縁」のひとつでもある。
確かに「恋人」というと、ちょっと甘酸っぱい味わいがあるが、「愛人」となると修羅場が連想される。そう考えると、やっぱり「愛」と「恋」との距離はだいぶ遠のく。
厄介なのは、英語では「愛」も「恋」も「Love」であることだ。キリスト教が日本に入ってきた時、「聖書」の「(神の)愛」は「御大切」と訳された。こっちの訳語の方がしっくりくるような気がしないでもない。もちろんラテン語などでも「愛」と「恋」は区別されない。
「愛」が現在と同じような意味で使われるようになったのは、たかだか明治以降のことなのである。ちなみに伊藤整は、「男女の結びつきを翻訳語の『愛』で考える習慣が日本の知識階級の間に出来てから、いかに多くの女性が、そのために絶望を感じなければならなかったろう」と書いている。
現代の「愛」は舶来品であって、「恋」という言葉こそ日本的なのである。「恋」については、もっと正面から考えてみることが重要だと思う。
などということを、某大手新聞社の記者を前に話したことがある。当方がまだ20代半ばの頃だった。なんでもその新聞の正月版で「若者の考える未来のテーマ」みたいな特集を組むことになり、なぜかその対象者の一人に選ばれたのである。「20代半ば過ぎて若者もないだろう」とは思いつつ、愛と恋について、少々息巻いて語ってしまった。
後ほど、確認用のゲラ刷りが送られて来て、驚いた。その文章をちゃんと覚えているわけではないが、こちらの長口舌は「愛よりも恋が大事。これからはもっと恋について考えなくっちゃ」という数行にまとめられていた。取材対象者が50人ほどいたのだから、短くされるのも無理もないのだ。呆然としつつも手を入れる気にはならず、「わかる人にはわかる」と無理に思い込んで、そのまま送り返してしまった。
こんな文章でこちらの真意がわかる人などいるはずもなく、きっと「いい歳して恋についてばかり考えてる男」、昨今の言い方なら「ちょっとイタい奴」だと思われたに違いない。
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
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