忘れものあります|米澤 敬

44|名月とプランクトン


 

関東平野の北縁で、山を見て育った。赤城、榛名、妙義の上毛三山、そして空気の澄んだ日には浅間の山も遠望できた。特に赤城は、小学中学高校と、いずれの校歌にも登場するほどに、馴染みの深い山である。
小学校の林間学校も、赤城のカルデラ湖、大沼のほとりで行われた。夜は小さな焚き火を囲み、学年有志による出し物があった。ほとんどが女子たちによる唱歌のコーラスなど、ありきたりの演目だったが、目立ちたがりだったわれわれは何を血迷ったか「名月赤城山」をテーマにしたコントを演じてしまった。あの新国劇の「赤城の山も今夜を限り、生れ故郷の國定の村や、縄張りを捨て国を捨て、可愛い子分の手めえ達とも、別れ別れになる首途(かどで)だ」のパロディである。夢中だったのでコントが受けたがどうかは、さっぱり覚えていない。まあ、失笑を買ったのだろう。ただ、今でも赤城の山容を目の前にすると、国定忠治とプランクトンを連想してしまう。

中学では、約2年ほど生物部の部員だったらしい。「らしい」というのは、友人の寺の息子が野球部を辞めて生物部長になり、あまりに部員が少ないので、本人に無断で名簿に名前を入れたということによる。一度もその活動には参加したことはなく、知らないうちにいわゆる幽霊部員にされていたのである。坊主の息子が幽霊をこしらえてどうする、と思った。
そんな経緯もあって、高校ではその友人といっしょに生物部に入部した。もちろんウサギやモルモットやニワトリの世話をするわけではない。そういうのは小学生の「いきものがかり」の仕事である。
わが生物部では、冬季をのぞくほぼ毎月、赤城山に登っていた。山頂付近の大沼でプランクトンを採集するのである。手漕ぎボートで沼の真ん中まで行って、プランクトン・ネットを何度も水中に下ろす。冬季は結氷する。氷が厚くなれば沼の中心まで歩いて行って氷をくり抜き、プランクトンを採集することは可能だが、ちょっと危険だ。なにより、冬はワカサギ釣りの季節なので、沼の水をプランクトンネットでかき混ぜたりすると、釣客たちの顰蹙を買う。
生物部の日常は、そうして深度別に採集した沼の水をプレパラートに一滴垂らし、顕微鏡で観察することにあった。プランクトンの種類別にその数を数えるのである。メロシラ(樽珪藻)、ボスミナ(象微塵子)、アスプランクナ(袋輪虫)、ケラテラ(亀の子輪虫)などであるが、毎月一度くらい顕微鏡を覗いている部員の誰かが大声で叫ぶ。「新種だ!」
そうそう簡単に新種発見などがあるわけでもなく、たいていはありふれたプランクトンの誤認なのである。一度、巨大な(あくまでも顕微鏡の視野内で)怪物のようなやつを「発見」して驚いた。ノロというミジンコだった。ミジンコとしては大型の部類で、1センチを超える個体も珍しくない。その名は、ノロウイルスとは全く関係なく、生きているときの動きが緩慢、つまりノロいことによる。プランクトンというと微生物であるかのような印象だが、自分では泳げない、あるいは泳ぐ力の弱い水中の浮遊生物の総称である。だから、ときには長さ5メートルにもなるエチゼンクラゲも立派なプランクトンなのだ。

ともかく交通量監視員のように、来る日も来る日もプランクトンの数をカウントする作業は、案外楽しかった。一生の仕事にしてもいいくらいだと思ったほどである。そうして50年も続けていたら、顕微鏡など覗かなくても、サンプルの一滴を見ただけで、どんなプランクトンがどれだけいるのか言い当ててしまうという「職人技」を身につけることができたかもしれないし、もしかすると正真正銘の「新種」を発見していたかもしれない。その新種が「ヨネザワミジンコ」などと命名されたら、それはそれで名誉なことなのだろうが、嬉しいかどうかは、ちょっと微妙である。


米澤 敬(よねざわたかし)

群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。