忘れものあります|米澤 敬
45|ふつつかものですが
テレビドラマを見ていたら、プロポーズシーンで求婚された女性が「ふつつかものですが、よろしくお願いします」と返していた。「ふつつか」という言葉、久しぶりに聞いた。そもそもこれまで、この言葉を耳にしたのはドラマの台詞だけで、実生活では一度も出会った覚えはない、などと考えていたら、「ふつつか」という表現が気になりはじめた。
その意味が「ゆきとどかない」とか「つたない」であることは了解できるものの、それが何故「ふつつか」なのかがわからない。
「ふつつか」は「不束」と綴り、「太束」が転じたものであるという。ネット情報によれば「太くて短い柱」あるいは「太く丈夫なさま」であり、「デブ」の意であるなどともいう。確かに『宇津保物語』にも「大きやかにふつつかに肥え給へるか」などという表現もある。
「デブ」のことであるかどうかはともかく、「束」は太さの単位でもあり、「ひとつかみ」の太さが「一束」であって、それが太いということは、そもそも手が大きいか、測る対象が太いかのどちらかである。「太束」が太い柱であることも、まあ納得はできる。ただし「ふつつかもの」が大黒柱のように頼り甲斐のある人のようで、ちょっと昨今の用例にはそぐわない。一方で、『源氏物語』では、「少し黒みやつれたる旅姿いとふつつかに心づきなし」と「みっともない」とほぼ同義で使われている。
江戸時代の「不束」は「不埒」や「不届」の意となり、犯罪者のことにもなってしまう。プロポーズの返答としは、さらにふさわしくない。
順当に考えれば、太い柱のように武骨で純朴で、気が利かないけれど、実はそれなりに頼りにはなるといったあたりの意味が、現代の「ふつつか」という言葉に込められているのだろう。
「ふつつか」について調べていたら、以前「もったいない」に引っかかってしまったことを思い出した。そのときのきっかけは、ケニアの環境保護活動家のワンガリ・マータイ氏の「モッタイナイ」発言だった。「地球に優しい」とか「SDGs」などというどこか胡乱な言葉より「もったいない」や「お天道さまが見ている」の方がよほど得心できる。そもそもLGBTやダイバーシティもそうだが、アルファベットやカタカナになった途端、胡散臭い感じがするのは、当方のへそが曲がっているためなのだろうか。
話を戻す。マータイ氏は「もったいない」の意味がわかっているのだろうかとも、当時は思った。そういえば自分もわからない。「もったい」は「物体」や「勿体」とも書く。「勿」という馴染みの少ない漢字に惑わされたためもあって、「もったい」は「旦那」や「機嫌」や「挨拶」や「莫迦」と同様に仏教起源の言葉だと思い込んでしまった。
「勿」は「なかれ」と訓じ、禁止をあらわすらしい。「体」はものごとの本質である。「もったいない」は「体」を二重否定することで、「体」のない状態を強調する言葉だとも説明される。でも「ハンタイのハンタイはサンセイなのだ」(「天才バカボン」より)であるように、否定の否定は肯定なのである。「勿」の文字の方がなんだか偉そうだったこともあり、誤解していたのだが、「もったい」の元々の表記は「物体」の方であり、そこには否定はない。「物体」つまりものの本体を否定することが「もったいない」と、素直に解釈しておけばよかったのである。いろいろ勿体をつけた割に、凡庸な結論になってしまった。申し訳ない。
ただしあえて「勿体」の方にこだわるなら、「もったいない」は「体のないことはない」、つまり、あらゆるものごとには「体」があるということでもある。「体」は、人によって、価値であり、神であり、仏であり、魂であり、心であったりもする。だからこそ、「もったいない」ことをするのは、どこか後ろめたいのである。あ、「後ろめたい」の「めたい」ってなんのことだろう。
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
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