忘れものあります|米澤 敬

46|それでも地球は……


 

はじめて世界地図を見たときに思ったのは、大陸というものは下に向かって尖っているということだった。世界地図に限らず、ほとんどの地図は北を上にして描かれているので、もちろん「下」は「南」である。便宜的なものであるにもかかわらず、何となく重いものは「下」(南)に落ちていくというイメージもあった。南北アメリカもアフリカも逆三角形であり、ユーラシアだってインドを頂点とする平べったい三角形だ。南北に行くほど(緯度が大きくなるほど)間延びする一般的に使われているメルカトル図法の地図ではやたらに大きいグリーンランドも下に向かって尖っている。オーストラリア(オセアニア)は例外だが、それでも二つのツノが下に尖っている。それらの下に向かう大陸の先端からしたたり落ちた陸のかけらが溜まったのが、南極大陸であるようにも見えた。
少々知恵がついてくると、今度は南米とアフリカが気になりはじめた。南米の東の出っ張り方とアフリカの西の凹み方がよく似ているのである。もしかするとジグソーパズルのピースのように、その出っ張りと凹みはぴったり重ねられるのではないかとも感じたが、実際に地図を切り抜いて確かめることまではしなかった。これについてはけっこう多くの子どもたちが気づいているはずだ。当方はそこそこ「良識」もついていたので、「たまたま」そうなっているだけだろうと思うことにした。
ところがそんな子どもっぽい思いつきを「科学」にしようとした人がいる。ドイツの気象学者、アルフレート・ヴェーゲナー(1880-1930)である。彼は南米とアフリカだけではなく、すべての大陸がもとは一つであり、そのパンゲアと名づけられた始原大陸が割れて、地球上に散らばっていったのだと言い出した。いわゆる「大陸移動説」である。南米東岸とアフリカ西岸の化石相が似ているなどということも、その証左とされた。いっときは話題になったものの、かつて地球や種が不動であると信じられていたように、大陸も不動であるという固定観念が強かったこともあって、彼の大陸移動説はおおむね奇説扱いされていた。
ところが1970年に差し掛かるあたりに、大陸移動説はプレート・テクトニクス(プレート理論)として復活する。
その頃、当方はちょっとした気の迷いから大学の地質学鉱物学科に席を置いていた。いまではそんな19世紀の博物学の名残のような学科はどこの大学にも存在しないのかもしれない。地球科学や地球物理学に吸収されているのだろう。物質科学が量子力学、天文学がビッグバン理論、生物学が進化論やDNAの発見によって大きく様変わりしたようなことも、地質学にはまだ起こっていなかった。いや、実際にはプレート理論の登場によって、大きく変貌しようとしていたのだが、我が地質学鉱物学科は、それを拒絶しようとしていたのである。
学科の長は、日本地質学会の大御所であるとともにソヴィエト科学アカデミーの会員だった。噂では、凍土で発掘されたマンモスの肉をソ連から送られたその教授は、肉の一部をすき焼きにして食ったという。マンモスのすき焼き、ちょっと味わってみたい気がしないでもない。その教授は、最初の授業でいきなりロシア語で板書するような人で、第二外国語でロシア語をとっていなかったほとんどの学生は呆然としたものである。
ともかくウチの学科はソヴィエト派だった。米ソ冷戦の時代であり、西側の科学であるプレート理論は、邪教視されていた。件の教授の講義でかろうじて覚えているのも、プレート理論批判だった。旧来の地向斜(ジオシンクライン)理論(地震などを地殻の垂直方向の変動で説明するもので、水平方向の動きで説明するプレート理論とは基本的に対立している)を盾に、プレート理論を妄説として退けた。
しかし多くの学生は新しいもの好きなのである。反プレート理論の講義を受けながら、机の下で当時出版されたばかりの『日経サイエンス』誌の「プレート・テクトニクス特集号」を盗み読みしている者もいたし、同誌はひそかに回覧もされた。昌平黌で山県大弐の『柳子新論』を回し読みしたり、戦時下日本で『共産党宣言』を隠し持ったりしているような気分の幾許かを味わったものである。
現代では、地震も火山活動もプレート理論で説明されるのが当然になっている。ただし、何でもかんでもプレートで説明することへの疑義も現れ始めた。科学的真理というものは、それほど確実でも普遍的でもない。丸呑みするのでは信仰と変わらない。もっともそのあてにならないところがあるからこそ、科学は面白いのである。


米澤 敬(よねざわたかし)

群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。