忘れものあります|米澤 敬
48|それは先生
何を勘違いされたのか、ごく稀に「センセイ」と呼ばれることがある。これは苦手だ。こちらも、相手が医者でも弁護士でも政治家でも、大学教授でも「先生」と呼ぶことはまずない。さすがに小中高校時代の教師は「先生」と呼んでいたものの、本人のいない場所では、苗字の呼び捨てか仇名だった。尊敬していた、あるいは一目置いていた教師も「さん」づけだった。中国では「先生」の敬称はもっと一般的らしいけれど、ここは日本である。数少ない例外の一人が、小学校高学年の担任だった山本先生である。
5年生のとき、当方の生意気な物言いに怒った6年生と取っ組み合いの喧嘩になった。口喧嘩には自信があったが、こういう問答無用の状況になると、フィジカルはもちろん、メンタルも弱い。取っ組み合いはこちらの泣きべそで幕となった。そういえば中学時代にも、何度か先輩に体育館の裏に呼び出されたことがある。曰く「お前、生意気だ」。客観的にもけっこう嫌な奴だったのだろうと、思わないこともない。
その小5時代の喧嘩については、翌日の学級会でクラスの女子にチクられた。「ヨネザワくんが、校庭の砂場でケンカしてました。いけないと思います」。まあ、こっちが泣きべそをかいていたことまで言及しなかったのは、ジョシのナサケだったのだろう。こちらは、先生に叱られることを覚悟した。ところが山本先生は、「ほう、ヨネザワもケンカができるようになったか……」それだけだった。叱られるよりも心に染みた一言だった。
その山本先生、当方が昆虫や魚が好きだということを知って、放課後に水産試験場の見学に連れていってくれたりもした。
先生はまた担任になってすぐ、なぜかヨネザワを新聞委員に任命した。仕事はまず下級生のための壁新聞づくりである。大きな模造紙にマジックインキで学校行事や交通安全などの注意事項を書くというもの。ただそれだけでは模造紙の半分くらいしか埋まらないので、自分の好みで手書きの恐竜図鑑やらコラムめいた鉄道ネタやら四コマ漫画などで埋めていた。
6年生になると今度は、同学年向けのガリ版新聞を担当させられた。ガリ版、あるいは謄写版印刷という印刷技術は、もう知る人は少ないかもしれないが、かのエジソンの発明である。当時は、というかこちらが大学生になった頃もまだ、ガリ版はいちばん手っ取り早い複製メディア制作技術だった。学生運動のアジビラ(これも死語かもしれない)も同人誌も、ほとんどがガリ版だった。
ガリ版には、ある程度技術の修練が必要である。ワックスが染み込んだ原紙に鉄筆で直接、「ガリガリ」と文字や絵を書き込む。力が弱いと印刷してもかすれて判然としないし、強すぎると原紙が破れる。小学生時代は何枚も原紙を無駄にして、山本先生に苦笑されたものである。
以上は今は昔の物語。一応なんとか大人になって編集を生業とした頃、出版界は活版印刷が主流だった。その後、写真植字を使ったオフセット印刷が中心となり、現在はデスクトップ・パブリッシングである。そんなメディア制作の歴史の最初の一歩、手書きの壁新聞とガリ版印刷を体験させてくれたのが山本先生だった。だから今でも山本先生は、山本先生のままなのである。
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
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