忘れものあります|米澤 敬
49|クマを想う
今年はウマ年だそうだが、クマについてのあれこれを思い出してしまった。2025年の後半は、やたらにクマのニュースが溢れた。被害に遭われた当事者にとってはおおごとであることはわかるが、何かほかの肝心なことが報道から隠されているのではないかと、ちょっと疑心暗鬼にもなる。「クマの駆除」という言い方も気に掛かる。
学生時代は地質学を専攻していた。3年時の夏は、フィールドワークによって地質図をつくるのが必須であり、2週間ほど毎日、山に入らなければならない。北海道の静内という町の公民館で雑魚寝をし、早朝から二人一組でヒッチハイクをして、日高山系の山麓まで辿り着く。ときには膝の上まで水に浸かり、沢伝いに尾根を目指し、地層の露出しているポイントでハンマーとクリノメーター(小型測量器)を使ってその傾斜角度と方角を記録していくのである。もちろん日高山系にはヒグマがいる。真面目にハンマーを使っている限り、金属音を嫌うクマに出会うことはないと、先輩から教えられた。それでも調査の帰りの山道で一度、クマを目撃したことがある。幸い、先方は谷を挟んだ反対側の山の斜面にいたのでことなきを得たものの、その後は金属音とともにクマが嫌がるという口笛を吹きながら国道まで出た。二人とも口笛はかなり調子を外していた。
父親は林業を生業にしていたので、一年の大半は山の中だった。父親曰く、「本州のツキノワグマなんぞ、ヒグマに比べれば大きな犬ころのようなもんだ」。それでもやっぱりクマはクマである。昨秋その父親の実家がある岩手の温泉ホテルに行ってきた。フロントでは夕方以降は外出を控えるよう注意された。何しろ盛岡市街のど真ん中にもクマが出没していたのである。親戚の家では、朝、玄関を開けたら庭にいたクマと目が合ったという。「こっちがクマの縄張りの中に住んでるんだから、そういうこともあるさ」だそうである。
10年ほど前に、その隣県の秋田の阿仁でマタギの取材したことがあった。
マタギは日本の伝統的な狩猟集団で、かつては山立(やまだち)とも呼ばれていた。マタギの語源は、鬼より強い又鬼、シナの木(マダ)の皮を剥いで利用するため、山を跨ぐように活動するため、などの諸説があるが、真偽は定かではない。また山に入ると里言葉に代えて、山の神を畏れ尊び、日常生活の「汚れ」をはらい猟場を汚さないために、イタズ(クマ)、コシマケ(カモシカ)、セタ(イヌ)、サンペ(心臓)、キヨカワ(酒)などのマタギ言葉を使う。かつては弓矢や槍を用い、江戸時代より火縄銃、明治以降は村田銃、現代ではライフルを使用するようになった。
伝承では、弓の名人であった万事万三郎がマタギのはじまりとされている。万三郎は、日光権現と赤城明神との争いに際し、日光の神を助け赤城明神の化身である大蛇(一説に大百足)の目を射抜いた功績で、全国の山で狩りをしてもよいとする認可状である「山達根本之巻」が与えられたという。これを手書きで写したものを、それぞれのシカリ(マタギ集団のリーダー)が所持し、いまも代々受け継いでいる。
「山達根本之巻」。マタギのリーダーであるシカリの家に代々伝えられたもの。書写の過程でそれぞれの内容には若干の異同がある
10年前の取材のとき、マタギたちはすでにクマの増えすぎを懸念していた。「いまはクマが頻繁に人里まで出てくる。自然のバランスが崩れている。あと10年もすると野生動物の増えすぎで、大変な状況になる。大きな原因はハンターの減少。ただし、マタギとハンターはまったく違う。単独で歩いて、ルールやしきたりや先人の教えを気にしないのがハンター。生息数や野生動物の状態や山の状況などを勘案しながら狩るのがマタギ。マタギ勘定という決まりもある。狩りに10人参加した場合、誰が捕獲しても獲物に対して10人すべてに同じ権利があって、同じ量の肉が分配される。見ていただけの人も同じ量である。ハンターでは多くの場合、狩りはゲームであり、個人の成果になる」。
もともとマタギの狩りの対象はニホンカモシカだった。そのカモシカが天然記念物になって、対象の中心がカモシカからクマになったそうだ。クマを仕留めたときには、頭を西に向けて仰向けにする。伏せておくと、クマが死んだ振りをしているような場合、いきなり飛びかかってくるからである。完全に仕留めたことを確認すると、イヌツゲの枝をクマにかざして呪文を唱え引導を渡す。呪文は「山達根本之巻」で伝えられたもの。山に入るとき、獲物を獲ったとき、皮を剥ぐときなどにも唱える。呪文もクマの頭を向ける方角も、流派によって微妙に違っているという(ちなみに阿仁のマタギは日光派重野流)。次に、心臓、肝臓、背肉、それぞれ3切ずつを3本のクロモズの串に刺し、手で持って焚き火で炙り、1本は山の神に供え、残りは次の豊猟を願いつついただくという。
マタギに不可欠の道具、ナガサ(山刀)。木を切るのは刃の根元、肉を切ったり皮を剥いだりするには尖端と、わけて使う
マタギの猟もまた人間の都合による殺生(せっしょう)だと言ってしまえば、身も蓋もないけれど、命に関わることだからこそ、入山の際には精進潔斎をし、祈りや礼儀を尽くさずには、立ちいかないのだろうとも思う。
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
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